柔整ホットニュース

特集

これからの日本の医療と保険制度

2010/10/16

たとえば、院内で患者さんが心筋梗塞の発作を起こして、倒れてしまったとします。
直後に意識消失、心臓停止、呼吸停止、そばにいたあなたは素早く対処してそれらを確認、他のスタッフに救急車を呼ぶよう指示すると同時に気道確保、人工呼吸、心臓マッサージを的確に施行、続いてAEDを行い、患者さんの心肺を蘇生させた。数分後には救急車が到着、患者さんをストレッチャーに乗せて車内に搬入、直ちに病院に向かって発車した。
もうすぐ病院が見えてくるというあたりで、患者さんは意識回復、救急隊員は、「この状態なら、後は病院で一般的な処置をすれば、99%救命できる」と確信した。ああ、助けることができた、良かった。
―しかし次の瞬間、暴走トラックに激突され、救急車は木っ端微塵になった。―

こういうことも実際には起こる。
救急車を呼ぶという“正しい判断”をしなければ、その“余計なこと”さえしなければ、患者さんは病院で処置などしなくても、あのまま何の後遺症もなく普通に寿命まで生きていけていたかもしれない。

 

しかし。
そこから先は、“神様の領域”だと思うのです。

そして、だからと言って私たちが何か責任ある選択を迫られた時、流れに任せて傍観していればよいということではない、正しい判断を目指す努力を放棄するべきではない、そう思うのです。
直面した困難な状況を、いかに乗り越えるか、たとえ必死に努力したとしても、私たちの力が及ばない領域はあります。しかし、大抵は私たちが未熟だからです。それを承知の上で、精一杯頑張る。ただ頑張ればいいのではない。あくまでも目指すものを「実現」させる、そのために最後まで貫く。

それでもダメだったら、そのこと全てを “神様の領域だから仕方ない”と言って自分を慰めていいということではない。結果を、目を開いて受け止める。本当に100%神様の領域のことだったのか、自分の努力が足らなかった所はないのか。それを背負って生きる。そしてその経験を必ず次に生かす。

ここに私たちの「人生」というものの意義、そして楽しさが隠されているのではないかと思います。
「真に生きる」とはこのことではないだろうか。その先にこそ、人々の夢の実現があるのではないか。
理屈はありません。ただそれが、心の底から湧き上がってくる思いだ、というだけです。理屈も何もないけれど、私は「それが真実だ」と感じています。

いつ命がなくなるかわからない、はかない存在。
間違いだらけの、不完全な存在。
周りの状況によって簡単に運命が変わってしまう、弱い存在。
私たちの本質は、そんな所なのが事実でしょう。
しかし、パスカルの言う“考える葦”のように、私たちは、たとえそうであっても“自分自身がそういうちっぽけな存在であること”を知っている。
その一点のみにおいて、私たちは宇宙をも包むことができるのだ。そして共に生きることで、励まし合って、人生を進んでいくことができるのだ。―
私は、このように考えています。

自分自身の良心に心を向け、その声に耳を澄まし、知るべきことを感じ、必死に努力をして、判断し、そして楽しみながら、生きていく。 患者さんと、仲間と共に、喜びも悲しみも分かち合いながら、生きていく。
そうやって生きていきたいと、私は思っています。

 

Message for my friends

さて、皆さん。
もう一度、私が行った11個の選択を振り返ってみていただけたらと思います。

正しい判断をするためには、共感力を発揮するよりも前に、大切なことがあると思っています。
それは、まず自分自身が、“当事者意識”を持てるかどうかということです。
観客でいる間や評論家でいる間、人任せにしている間は、自分自身の向上というものは、ないのではないでしょうか。

 

想像してみてください。
私が今回行った判断は、あくまで一つの判断に過ぎません。
前述したように、それが本当に正しかったのかどうかも、まだわかりません。
他の方法というものも、きっとあるのではないかと思います。
あなたなら、これら11個の場面で、それぞれどうするべきだったと考えますか?

そして、あなた自身が今、全く同じ場面に直面したとしたら、Aさんに対してあなたは、具体的にどうすることができるでしょうか?

皆さんへの愛をこめて。
健闘を祈ります。