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東日本大震災を決して忘れない 、忘れてはならない!

2014/04/16

世界中の人々の価値観を変えたあの東日本大震災から3年の時が流れてしまった。しかし、復興にはまだまだ時間がかかりそうな中で、被災された方々は疲弊している。自分たちの手で復興するしかないのか。しかし、当事者の方々にはまだパワーが残されている人も勿論いるが、力尽きてしまっている人々はどうすればいいのか。せめて被災しなかった人たちが何らかの支援をするべきではないのか?今後、日本国民は支援策をもっともっと真摯に模索していくべきではないだろうか。

公益社団法人宮城県柔道整復師会・櫻田会長に3年経った思いなどをご執筆いただいた。

 

東日本大震災から3年、被災県から思うこと
櫻田裕 氏

公益社団法人
宮城県柔道整復師会
会長   櫻田   裕 氏

 

 

-大災禍の発生・忘れられない記憶-

3月11日は県内内陸の自院内で施療中でした。たびたび地震が続いていたこともあり、大きな揺れもすぐにおさまるだろうと患者さんと話しているうちに、一気に立っていられないほどの激しい揺れとなりました。そして突然の停電。さらに激しい2波目の揺れが襲い、私は、とっさに高齢の患者さんを抱きかかえて治療ベッドの下にもぐり込ませました。院内は恐怖で叫び声が飛びかい、他の患者さん達にも、すぐにベッドの下に避難するようにと叫びました。激しい揺れは次々と薬品棚や材料庫を倒し、収納していた物をまき散らして壊し、書棚の本や書類は、まるで恐怖から逃れようとする生き物のように全てが飛び出してしまいました。長かった揺れが収まると、辺りは倒れた家具や飛散した物で足の踏み場がない状況でした。すぐに院内にいた患者さんやスタッフの無事を確認し、患者さんがたは家族の安否や自宅の状況を気遣い、急いで帰宅の途につきました。スタッフ達にも自宅の状況を確認するように帰宅させました。私も自宅に戻ってみると、台所や食堂の戸棚からすべての食器が振るい出され、床一面にガラスと陶器の破片が飛び散っていました。居間のテレビは倒れ、テーブルや机は1メートルほど移動、やはり本棚からはすべての本が飛び出していました。寝室では背の高いタンス類の引出しや扉が開き、収納物が吐き出された状態ですべて倒れて重なり合い、足の踏み場もなく部屋の中に入れない状況でした。

外に出てみると、市内は無音の静寂の中で車だけが慌しく走り回り、停電で信号が点灯しない交差点では早くも渋滞が発生していました。電柱は大きく傾いて電線が垂れ下がり、道路はいたるところで陥没や亀裂が走り、30~50センチも陥没した道路は通行不能となり、雪が降り始めた夕刻になると帰宅困難のために幹線道路は大渋滞するという惨状でした。

震災当日はライフラインと通信が完全に停止した中で、辛うじて携帯電話のテレビで大津波による沿岸部の信じ難い惨状を知ることとなり唯々驚愕し、自然の猛威の前では人智の及ばぬことを痛感させられて底知れぬ無力感に襲われ、そして恐れおののくばかりでした。

事態の深刻さは日を追うごとに目を覆うばかりでしたが、避難所に全国各地から続々と水や食糧などの支援物資が届けられるありがたさと、救援活動に急行する自衛隊員の勇姿、そして、ライフラインの復旧支援のために全国から派遣された電気、ガス、水道関係の支援車両が続々と連なる様を目の当たりにして、ありがたさと心強さで身体がふるえ涙が流れて止まらなく、今でも当時の情景を思い出すと目頭が熱くなります。

 

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