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第19回日本統合医療学会が開催!

2016/01/16

第19回日本統合医療学会が平成27年12月12日(土)・13日(日)の2日間、山口市民会館で開催された。2日目の午後1時30分から市民公開講座が開かれ、多くの山口県民が参加した。

 

市民公開講座『心の国造り~先人に学ぶ人間愛~』
Ⅰ部 「花燃ゆの時代-吉田松陰の門下生-」

一坂太郎市民公開講座『心の国造り~先人に学ぶ人間愛~』Ⅰ部 「花燃ゆの時代-吉田松陰の門下生-」と題して、萩博物館特別学芸員であり、至誠館大学特任教授で防府天満宮歴史館顧問、『幕末維新の城』『吉田松陰とその家族』『吉田松陰と高杉晋作の志』、また『花燃ゆ』批評で知られる一坂太郎氏が講演を行った。座長は、山口県医師会会長・小田悦郎氏が務めた。

 

一坂氏は、〝幕末から明治維新を駆け抜けた志士たちが日本の未来、新たな国造りを如何考え実行していったのか〟について講演。以下、要約である。 山口県は、かつて周防の国と長門の国と呼ばれ、江戸時代は長州藩或いは萩藩と呼ばれていた。統治していた毛利家は萩に藩校明倫館という学校を創設、山口県内各地には長州藩の重鎮が20校位学校を創っている。私塾が8、寺子屋は山口県だけで大体1300~1400位あった。いま山口県にあるコンビニの倍くらい学ぶ場所があったというほど教育が熱心に行われていた。

吉田松陰は天保元年・1830年、萩の松本村に長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。杉家は、禄高26石で中の下くらいの武士の家。祖父七兵衛が大変な本好きで、学問好きの一家であった。父・百合之助は、朝から畑仕事に兄・梅太郎、大次郎矩方(のちの松陰)を連れて農作業をしながら学問を教えた。父は全部暗記している歴史の本を諳んじて子供たちに聞かせ、子どもたちはそれを覚えた。松陰は妹が4人いて、直ぐ下の千代という妹は、松陰から大変可愛がられ93歳大正の終わり頃まで生きたが、明治の終わりから大正にかけていろんな雑誌や新聞に子どもの頃の思い出話、松陰はどんな子供だったかということを語っている。しかし、千代はドラマでは抹殺されている。兄弟が沢山いて面倒くさいとして消されたようで、ドラマというのはそういうものである。2番目の妹が寿(ひさ)、3人目の艶は早く死んで、4人目の文(ふみ)は、最初は久坂玄端の妻になったが、亡くなって揖取素彦と再婚、大正10年まで長生きした。

今から22年前の平成5年、初めて私は東京の揖取家に資料を見せてもらいに行き、未だその時は、明治40年生まれのひ孫の方が生きていて美和や揖取素彦と14歳まで一緒にいたので知っていた。〝散歩に行ったらおばあちゃんの美和が凄く喜んで僕の頭をなでてくれた。賢い、賢い、松陰のようだと言ってくれた〟という話を聞きました。美和や揖取素彦を知っている人が、未だ平成の頃に生きていた。私にとってはそういう意味で、『花燃ゆ』というドラマに生々しさがある。末っ子の敏三郎は、耳が聞こえなく言葉は喋れなかったが風貌は松陰そっくりだった。殆ど家を出ることなく、明治9年、30代の若さで病死した。松陰はこの弟のことが非常に気にかかっていたようで、九州に行った時にはお寺に行って一生懸命〝耳が聞こえるようになってほしい、言葉が喋れるようになってほしい〟と祈っている。兄弟の中にこういう社会的な弱者がいたということは、松陰の人間観、弱者に対する眼差しが培われたのではないかと思います。

吉田松陰

wikipediaより引用

〝どんな家に松陰は生まれ育ったのか?〟とよく聞かれるが、ちょっと堅物のお父さん、ちょっと楽しいお母さんで、私はごく普通の家だったと思います。何故、松陰のような非常に純粋で国のこと、大義があると思えば脇目もふらず突進していく人間が生まれてしまったのかというと、それにはやはり理由がある。松陰の叔父である大助が養子に行って継いでいたが死亡したため、松陰が吉田家に入って6歳で当主になった。そこから松陰の運命が大きく変わり始めます。

吉田という家は武士の家だが特殊な家で、山鹿流兵学師範の学者の家だった。将来は学者になるために徹底したスパルタ教育、エリート教育を受ける。官から命ぜられた数人の学者が朝から晩までマンツーマンで専門知識を徹底的に教える。実の叔父さんにあたる玉木文之進も先生の一人に選ばれ、松陰に勉強を教えた。有名な話で、ある夏の日、玉木文之進と松陰(といっても6歳か7歳の子供)がマンツーマンで勉強していたところ松陰のおでこに虫が止まった。松陰は本を読みながら何げなくおでこに手をやって、虫を払いのけた。すると、玉木文之進が烈火の如く怒って、いきなり殴る蹴るのすさまじい折檻をしてしまう。松陰は〝許してくれ〟と泣きわめく。〝何故そんなに酷いことをしたのか?〟。先生の言い分としては、〝松陰がいま本をひろげてやっている学問・勉強は松陰のためにやっている訳ではない。松陰がそこで身につけた学問を将来藩のために役立てる、殿様のために役立てる、ひいては天下国家のために役立てるために今勉強をしているんだ、公のことをやっているんだ。公のことをやっている最中に虫がとまって痒い。お前は今、公私を混同した〟というのが激しい折檻の理由だった。

この理由にハッとさせられるものがあるとすれば、いま勉強というのは、私のためにあると言われます。〝なんで勉強しなければならないの?〟と子どもが大人に聞いたら〝貴方は面白くないかもしれないが、ゆくゆく学んでいけば良い学校に入れ、良い学校を出たら、良い仕事につけて楽な暮らしが出来るかもしれないから今一生懸命勉強しておきなさい〟というのが、今の勉強の意味であり、それは全く違うのではないか。ドラマで末梢された妹・千代が後年話しているのを読むと、松陰は子供のころ他の子供たちと遊ぶことがなかった。いつも本を読んでいた。松陰には幼馴染がいない。学校に行かせてもらえなかった。学校というのは、知識を身につける場所だけではなく、友達を作って社会のコミュニケーションをいろいろ学んでいくのが学校の役目でもあるのに、松陰はそういう機会を奪われてしまった。私は凄く悲しい子供だったと思います。とにかく大人たちの期待にそむいちゃいけないという気持ちが一生懸命あった。9歳の時に明倫館という学校に教授見習いで行き、12歳の時に藩主毛利慶親の御前講義を行い、19歳で一本立ちの教授になった。もの凄い早熟な子供で、徹底して純粋培養されたのです。幕末のあの時代、時代の壁に風穴を開けるにはやはり松陰のような人物が必要だったことは確かであり松陰が歴史上における意味というのは、歴史に風穴を開けるというところにあった。

 

松陰は何に衝撃を受けたのか?

産業革命を成功させ資本主義を確立した西洋の影響。広大な市場を求めてアジアへ西洋が力づくで押し寄せてきている時代だった。隣の中国ではイギリスがアヘン戦争をやって、中国をやっつけて上海を国際貿易港として開かせ、あちこちにイギリスの領事館を作り、香港を取り上げる、そういうことが隣の中国で行われていて、次は日本がやられる番じゃないかといった危機感が松陰の中にふつふつと沸き起こり、その危機感に突き動かされるような感じで、21歳まで一度も山口県から出たことがなかったが、4~5か月九州を廻ってきたことで、人間が変わったように松陰は行動の人になった。

萩に戻って3か月ほど経ち、江戸に勉強に行った。江戸でいろんな人に出会うが、自分の心を動かしてくれるような先生が居ない。江戸で学問をしている先生は、学問で飯を食うためにやっているような先生ばかりだと言っている。しかし全国から江戸に集まってくる友たちと交流して、特に仲良くなった宮部鼎蔵ら3人で東北旅行を計画する。ロシアがどんどん南下を始めているから自分たちで視察して防備を調べておこうと東北に行く。

今であれば何とかしてほしいという若者はいっぱいいるが、彼等は自分たちで何とかしなければいけないと思った。やはり江戸時代の武士だと思います。天下国家の一大事が起こった時は「イザ鎌倉!」という掛声にあるように、真っ先に自分がかけつけなければならないという教えを受けている。江戸時代というのは200年以上、天下太平であったが、こういう教えはちゃんと受け継がれていた。幕末の頃になって外圧がアジアに押し寄せて来た時に「イザ鎌倉!」ということで、みんな立ちあがった。長州だけではない。全国各地、薩摩や土佐、敵対した新撰組や会津藩にしても「日本をなんとかしなければいけない」と、みんな思った。そういう人たちがいっぱい居た時代だった。

 

 
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