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第19回日本統合医療学会が開催!

2016/01/16
何故若者たちがいっぱい出てきたのか?

松陰が九州に行った時、長州藩に国防の意見書「水陸戦略」を21歳の松陰が出しています。長州藩というのは3方を海に囲まれているので何時外国から攻められてもおかしくない。その備えをキッチリ固めなければならない。そのために松陰は2つ大事なことがあると。

まず2つ目、「防御」をしっかりしなければならない。銃を買いこんだり、軍艦を買いこんだり、沿岸部に高台を作ったり、なんとかここを守るという住民の士気を高めなければならない。それよりも大事なことで一番目に大事なのは「仁政」であり、需教の教えで慈しみの心である。つまり弱い者を大事にする国、そういう政治がキッチリ行われている国であれば、その国を潰しにくる者がいたら国民はなんとしてでも自分の国を守ろうとする訳で、その上で防備があれば良い。従って「仁政」と「防備」、この順番を間違えてはいけない。私は、これが松陰の言っていることで一番凄いことだと思うのです。愛したいような国を先に作ること、それが政治家の役目です。先に愛したいような国をつくり、そうすることで自ずとみんなが国を守ろうと防備を固めていくべきだと言っています。

松陰は、半年位かけて東北地方の防備をみっちり視察して帰ってきたが、江戸を出発する時に藩の手形・許可証を貰わずに行ったため脱藩罪に問われ処分を受ける。嘉永6年・1853年5月の終わりに松陰が江戸に行って10日位あとに江戸で大事件が起こる。アメリカのペリー率いる黒船4隻が江戸湾の稲田沖にやってきて、幕府に開国するように求めた。実は、幕府は1年位前からやって来る情報は知っていたが一切秘密にしていた。来年返事をするということで、ペリーは日本を去ったが、黒船を見た松陰のショックは大きかった。外圧というものが日本人の前に目に見える形で表れてきた。これを払いのけなければいけない。払いのけることを「攘夷」と言う。

日本という国は3000年独立を続けて来た。松陰は、この独立を続けるためには〝志あるものが何とか払いのけなければならない〟と叫ぶようになる。松陰が尊敬していた佐久間象山は〝これからの日本は、東洋の道徳、西洋の芸術、これで行くべきだ〟と唱えていた。東洋の道徳というのは需教であり、道徳はこれまで通り弱者を大事にする需教の教えでいこう。西洋の芸術は絵や音楽ではなく、科学や技術のことで、これらは西洋からどんどん取り入れることで独立国として生き残っていくことを選ぼうと考えた。

ペリーが2回目に日本にやってきて「日米和親条約」が締結された。自由貿易についての条約ではなかったが、鎖国を200年以上続けてきた日本が国際社会に大きく乗り出したことは確かであり、ペリーの力で扉を半分こじあけられた。松陰は下田港から夜中にこっそり黒船に近づき、ペリーに乗せてくれと言う。〝アメリカと日本はその内、自由に往来出来るようになるから我慢しなさい〟と追い返され、自主して出て伝馬町の牢屋敷に投獄される。「世の人は よしあしごとも いわばいえ 賎が誠は神ぞ知るらん」は、松陰が失敗した時に詠んだ歌で〝世の中の人は、密航だなんて馬鹿なことを考えて、大変なことになるのは分ってるじゃないかと。悪口言うんだったら言え。自分の真心は本当に日本の将来を思ってやったことで、神様さえ知ってくれればいいんだ〟という強い気持ちを詠んでいる。幕府は非常に寛大で、やったことは悪いけれども、日本の将来を真剣に思ってやったことだと認めて、半年経って松陰を萩に送り返す。

松陰は、萩で囚人相手に孟子や孔子の講義などを行い、獄の風景をガラッと変えたという有名な話もある。叔父の玉木文之進が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾。松下村塾が凄いと思うのは2年ほど教えただけで、教わった学生は90人ちょっと、殆どが近所の子供たちで下級武士の子供だった。塾の中から、久坂玄璃という医者の子であり長州藩士で凄く学問が出来た。松陰はとにかく気にいって自分の妹を嫁にだした。しかし、彼は尊王攘夷で、下の関で外国船を撃ち、追放され失地回復をはかるが、25歳の若さで京都で切腹。高杉晋作は、幕府の視察団に加わって上海に渡り、上海が西洋の支配に置かれているのを見て危機感を強め、日本に帰って奇兵隊をつくる。やがて奇兵隊を伴って幕府と戦うが、29歳で結核のため維新を前にして亡くなる。禁門の変で戦死した入江九一、寺嶋忠三郎、有吉熊次郎、京都で切腹した松浦松洞、戊辰戦争で切腹する時山直八。明治維新まで生き残った前原一誠は、明治政府の三位まで務めたが萩の乱を起こして処刑される。山田顕義、初代の司法大臣で現在の日本大学・国学院大学の基になる学校を作った。品川弥二郎は内務大臣やドイツ行使など務め、現在の農協JA、信用金庫などの元になる団体を作った人。伊藤博文は、幕末の頃にイギリスロンドンに秘密留学し、明治最初の総理大臣で4回総理大臣を務め、最後はハルピンで暗殺されるがドイツ式の憲法を真似ながらも日本にピッタリ合う憲法を作らなければならないということで明治22年に憲法を作った。日本はアジアで最初に憲法を運用した国で日本をあなどっちゃいけないという気運が世界に出てきた。野村靖は逓信大臣、山県有朋は奇兵隊で活躍し明治になってから陸軍大将元帥になり国民皆兵、日本の軍隊の基礎をつくり総理大臣を2回務めた。軍隊を作ることによって日本の独立を守っていった。

夫々門下生が頑張った。この門下生たちは全国からえりすぐりの者を集めてきたのではなく、本当に近所に住んでいた子供たちであり、これが凄いところである。人材というのは、指導者が育てるもので「人賢愚ありと雖も 各々一二の才能なきはなし 湊合して大成する時は必ず全備する所あらん」。〝人間という奴は愚かな奴も賢い奴もおる、これ当たり前だ。しかし一つか二つかの才能は持っている、そこを引っ張って伸ばしていけば必ず人材になれるんだ〟ということを松陰は言っており、人間の才能というものに対する絶対的な信頼が松陰にはあった。一人一人と話していろいろ議論させながら一人一人の長所を伸ばしていくことを松陰は一生懸命狭い塾の中でやった訳です。

 

何故、塾生たちはそこまで松陰に影響を受けたのか?

それは松陰が自分でやって見せる先生だったからで、日本が危ないと思ったら脱藩して東北に行ってしまう。或いはアメリカが来たら、その船に乗って密航しようとする。そういう体当たりの生き方がまさに〝俺たち頑張らなければいけない〟という気持ちにさせられていったのでしょう。生意気な高校生みたいな10代後半の若者に、嘘や偉そうなことを言ったって、ついてこない。感受性の強い生意気な少年たちは〝こいつは凄い!〟と思った。自分でやってみせる人だった。自分の姿を見せることによって感化してしまった。だから短い間にこんな狭い塾でこれだけの人材が生まれたのでしょう。松陰が最も大切にした「志を立ててもって万事の源となす 書を読みてもって聖賢の訓をかんがう」。今は、医者や弁護士、政治家にしても最初から目標ばっかりがある。「志」というのは自分の心を真っ白にして、最大限に自分をこの世の中に活用させることを私は「志」だと思っています。そのために学問をするのです。松陰は〝外圧から日本を守るために自分は働きたい〟自分の「志」はそこにあると。しかし松陰の志に反することが起こります。幕府がアメリカのハリスと自由貿易を骨子とした「日米修好通商条約」を結んでしまう。イギリス、フランス、ロシア、オランダとも同様の条約を次々と結んでいく。日本は全面的に開港をする。孝明天皇が激怒、天皇と将軍の対立が幕末の政局に大きな影響を及ぼしていくことになる。松陰は、激しい反対をして、幕府の老中を殺すと言い出し、安政の大獄で江戸に送られ〝私は死罪に値する罪をおかしてしまいました〟と取調べの時に幕府側に言います。安政6年、1859年10月21日、30歳の若さで江戸の伝馬町で首を切られてしまいます。9年後に明治維新という大きな政権交代を迎えるが、政権交代が行われただけで明治維新がなったのではなく、憲法を作ったり、軍隊を作ったり、国民皆兵をやったり、中央集権をやったり、急激な近代化を進める中で、その中心になったのが松下村塾の塾生たちであった。

※2年後は明治維新150年という節目にあたる年で、反省しなければいけない点も多々あり、そういうものを含めて明治維新150年を迎えたいと思っています。今から101年前に第一次世界大戦が始まった年に、地球上の陸地の84%が西洋の列強の支配下にありました。実は日本はアジアで唯一の独立国であり、16%の中の1つであることを考えると松陰の「志」は、大変なことだったというのが分ります。また松陰とその門下生が残した「志」が今日も受け継がれているのではないでしょうか。

 

市民公開講座『心の国造り~先人に学ぶ人間愛~』
第Ⅱ部 「心と魂を考える―人間性と仏性―」 

山田法胤演者は、法相宗大本山薬師寺管主・山田法胤氏、座長は日本統合医療学会最高顧問・阿岸鉄三氏が務めた。長い歴史の中で培われた仏教仏閣を通じ、人とはどうあるべきか、また心とは何か、正しいとは何か、如何に生きるかについて話した。

 

 
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