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日本社会医療学会東京部会及び日本柔道整復接骨医学会・社会医療分科委員会、合同研究会開催!

2011/07/16

○乳幼児の死亡率を抑えることに成功した背景には、一つは安全なお産を確実に実現していったことで大きな効果があった。母子手帳を通じて妊婦の教育、助産師・産婦人科の医師等が必ず出産に立ち会う。問題があった場合、高度な対応のできる医療機関に移す仕組みをこの時期に確立。予防接種・健康診断等、出産から初期の育児に至るまでの地域社会の中で一貫したサービス提供ができるよう築いた。地域社会のボトムアップとトップダウンが上手に組み合わされて日本の健康社会を作り上げる一つの原型が出来上がった。1961年の国民皆保険制度で必要な医療に国民がアクセス可能になり医薬品治療の効果が着実に浸透。1969年位から国策による取組みが始まり、1982年、厚生省が音頭をとって高血圧の予防管理戦略を全国展開する中で高血圧治療の保険適用も始まり、減塩運動が地域社会レベルで徹底的に行われた。また降圧剤の服用が想像以上に血圧を管理し健康を維持する役割を担っていた。戦争直後から高度経済成長時期に至る期間に我が国は一つの健康社会の原形を作り上げることに成功したということが歴史的に見てとれる。

○我が国に保険制度が出来たのは1922年、健康保険法が成立、雇用者保険としてできた段階で当時保険でカバーされていたのは人口の僅か3%であった。これを促進したのが、1938年の国民健康保険法で、市町村を単位とした保険者として我が国は医療保険制度を普及させるという方針をたてた。雇用者保険と地域保険を組み合わせる保険構造が出来上がった。国民健康保険が着実に我が国の地域社会の中で浸透していった結果、戦争中で人口の7割を超える人たちが既に公的な医療保険でカバーされていた。戦後急に皆保険制度が出来たのではなく戦前からできていた制度が土台になって戦後早い時期に皆保険制度を導入することに成功した。戦後この皆保険制度を成立させるために国民健康保険法や健康保険法様々に法律改正を行った時に国民健康保険法を我が国の医療保険制度の基本法に据えた。皆保険制度の基本というのは国民健康保険法という地域保険法を土台として作るという考え方が戦後明確にされた。国民はまず一義的に地域保険に登録をして国民健康保険の被保険者になることが義務付けられている。国民健康法第6条 健康保険法の被保険者等を国民健康保険の被保険者としないという、この除外規定がなければ雇用者保険は成り立たない。国民健康保険法という地域保険を基本として、例外として雇用者保険を認めるというのが我が国の医療保険制度の基本構造である。

○政治的な力学と利害関係の中で医療保険制度の統合一本化はできず多様な保険者を寄せ集める形で昭和36年、医療保険制度は皆保険制度になり、雇用者保険との関係を見る限り実質並存する形になった。しかし法律を作る時には将来統合することを視野に入れて国民健康保険法を基本法としたという背景がある。このような形で皆保険制度が出来上がって運用されるようになったが、実は確実に国民健康保険が増え、雇用者保険、共済組合は減少している。景気の後退、高齢化、特に雇用形態の変化した中で所謂政府管掌保険(協会けんぽ)、組合健保や共済組合から脱落する人たちが確実に増えており、脱落した人たちは基本法である国民健康保険に加入する義務が生じる。しかし、その義務を果たしていない人が大量に居る(推定160万人以上)。更には、国民健康保険からも脱落して生活保護になる人の数が確実に増えている。従って生活保護の中での医療の支出が凄い勢いで伸びており、これから医療保険制度全体を持続可能な形にするにはどうしたらいいかを議論するときに最早生活保護の医療というものを無視はできない状況である。

○皆保険制度を導入した時に平等主義に基き「アクセスの平等」と「サービスの平等」という2つの課題を実現したが、3つ目の課題は「患者負担の平等」であった。それも、2004年に大体3割で患者負担を平等化した。しかし、皆保険制度の下、平等主義に基いて本来やらなければならない大きな課題が残っている。私が国会議員12年間在任中に経団連と連合を相手に取り組んだが出来なかったこと、即ち「保険料」である。皆保険制度というが、保険者によって支払う保険料の額は全く異なる。(中略)