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日本社会医療学会東京部会及び日本柔道整復接骨医学会・社会医療分科委員会、合同研究会開催!

2011/07/16

○柔道整復師の先生が沢山出席されているのに申し訳ないが、柔道整復師の先生方が不正請求のこと等でいろいろ問題になった。これは技術の問題でもなければ教育の問題でもなく、倫理観の問題であった。医学部の学生にもよく言うが、例えば内視鏡の手術がしたい、一定の技術を持っているか持たないか、早くやってみたい。こう思うこと自体、患者に対する倫理観というのは薄れてきているのではないか。患者はモルモットではない。自己の技術が十分であることが前提にあって、その後、説明と同意があり、初めて現場で内視鏡の手術に踏み切れる訳で、自分がやれるからやりたい、こういったことが前にあることは医療ではありえない。

○今の現状を一体どう考えればいいのかとした時に、医療と人の関わり、社会生活との関わりという点を考えてみたい。医療は社会生活と共にあり、社会から隔絶された医療は存在しない。なぜならば、元来人間は、常に負傷し、疾病に悩まされ、誰しも医療に依存する可能性があるからである。医療は、そうした脆弱な存在である人間を前提に成立し、社会化をおし進めてきたという歴史的過程を持ち、良かれ悪しかれ社会との緊密な相互関係を形成してきた。現代医療は、様々な面で現代社会を反映したものとなっている。近年急速に進歩したハイテク技術、バイオテクノロジーと医学との融合が作りあげた先端医療は、その顕著なものである。(中略)
医療技術は大きな変革をもたらしたが、まだ大きな変革をもたらされてないところがある。一つは近代医学を基とする医療の基本理念、もう一つは医師を頂点とする権威主義的な家父長的な医師・コメディカル・患者という縦の関係が変わらないといった医療の構造的本質である。1910年、フレックスナーの報告があり、フレックスナーは医師が研究者であるべきという位置づけを初めて明確にした人であり、アメリカで一定期間に沢山の医学部が潰れたが、これに大きな影響を与えたと言われている。このフレックスナーの報告以降、医学は研究を中心に置くと位置づけられてしまったことから、患者に対し全てではないが、臨床的なモデルケース、臨床例としての部分をもたらした。しかしこれを否定してしまうと医学の進歩はなく、だからこそ職能的な中に倫理的な領域を自ら育んでいくという認識を持つべきではないか。

○第4次医療法改正に「患者中心の医療」という言葉が出てくる。これこそが一つのメルクマールであり、それを基礎づけるのが、個人の人権の保護、特に自己決定権を基本とするバイオエシックスであった。バイオエシックスは、現在の医療をめぐる混迷と対峙し、また、未来を展望するための視座として欠くべからざるものとして登場してきたものである。第5次医療法改正ではそれとプラスして「良質で適切な医療の提供」となった。良質という意味は、これまで医療の質に視点がおかれていたが、第5次医療法改正では、医療人自体の質も良質という言葉に含んだ意味で使われている。

○こういった中で憲法に見る医療と人権、個人の人権の保護はどうとらえるか。憲法13条 個人の尊重と幸福追求権。第14条第1項 法の下の平等。憲法というのは国民生活の根本にあるもので、幸福追求権について触れている以上、医療がどのように患者さんの幸福に対峙できるのかと考える時にインフォームドコンセントからの患者の自己決定権、これをキチンと行っていくことである。憲法第25条 生存権・国の社会的使命。第1項第2項。これを守るには国だけでは難しく、国家がいくら高らかにこれを論じても、それを支える医療従事者が動かなければ何も動かない。そういう点で医療従事者の倫理観がどうしても必要になる。倫理観というのは、いい人になれと言っているのではない。プロとしてやるべき仕事、その中に患者・人権それを見る目を持つこと、そこに医療の専門職としての倫理観がある。職能的倫理観というのはそういうことである。(中略)
本来、柔道整復師は志のある倫理観を持った医療従事者であった。職能的倫理観は、ただ免許証についてくるわけではなく、「医療は社会生活とともにある」ことを認識しなければならない。そして患者が人であり、社会生活を営む中で個人の人権を常に尊重され、その中に医療があることを憲法の概念に先んじても理解しておく必要がある。これを志として医療従事者が持った時、医療従事者とは、職能的に倫理観を持つものとされよう。