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何故、柔道整復は国民に支持されてきたのか?
【第3回:江戸時代の骨継ぎ・接骨術】

2017/05/01

和蘭医学が栄えた江戸時代には、江戸と大坂に明らかな違いがあり、我が国の科学史上ひとつの特色だと言えます。
江戸における蘭学者は、幕府の役人や藩医らが多く彼らは社会的に上士階級層であり、その学究姿勢は蘭学の注釈・考証・解説・翻訳などを目的に没頭したようですが大坂の蘭学者は、その殆どが民間人であり、少数の上いわゆる町人学者と呼ばれる者が多く、常に批判的・客観的態度を失わなかったと伝えられます。
一方、接骨術においては難波村(現在の堺周辺)で業をなした難波医者、つまり「大坂の骨継ぎ」の評判は非常に高かったようです。
その一例として、江戸の名物風俗参考書と言われた“絵本家賀御伽”に難波医者に関する記載があり、「大坂の骨継ぎ」が全国的に著名であったことが窺えます。

江戸時代には戦による負傷者などは減り、もっぱら日常的な外傷者の治療が主となります。
1800年前半頃の江戸は既に大都市であり、仕官となれない武士達は就職難となり、また火事や喧嘩が横行する複雑で不安定な世情を迎えます。
武士の身分を持たない民間武芸者は、こぞって武芸道場を設立し生計の確保に努めます。そのような背景から幕府は、武士の身分を守るために民間武芸の稽古を禁じ、武士の身分を有さない者による武芸指南をご法度とする施策をとったようです。
このような背景から、武芸に長じた民間の者たちは活法を応用した治療技術を追求することになり、武芸道場は治療施設の様相を呈して現代の柔道整復師により近い「骨つぎ」誕生の具体的土壌を生むことになったと言われます。
幕府による武芸指南の制限は、単に武士の生計を確保することのみならず活法を競い合うといった結果をも招き、外傷者への治療技術習得により拍車がかかったのかもしれません。

江戸時代の西洋医学は事実上禁止の状態であり唯一、長崎の出島を中心として伝来する蘭方医学が大きく影響し、この後に医学全般の中心となります。
やはり蘭学の金字塔として杉田玄白・前野良沢らが苦心の上に翻訳された「解体新書」は特に大きな功績であったことは言うまでもありません。これら蘭方医学の発展と共に骨継ぎも栄えた訳ですが、いずれにしましても骨継ぎ・接骨術の伝承は秘伝です。
武術を修得した者による技術の一分野として現代に継承されていますが、技術も秘伝、多くの骨継ぎ・接骨術指南書も容易に読むことが許されない秘蔵書です。
それら秘蔵の書物をありとあらゆる方法を用いて、様々な努力の末に読み解かれた事実こそが後世に技術を残す端緒となりました。盗み読み同然の行為が殆どであったと言えなくもない様子であったのかもしれません。武芸や活法を習得するために弟子入りが許可されても、技術の習得や指南書の閲覧は容易でなく、技術の公開や各流派の交流なども無かったと考えることができます。
いずれにしましても、先人のお陰によって骨継ぎ・接骨術は今日に至ったと言えなくもありません。先人の並々ならない努力の賜物で技術が絶えることなく守り抜かれた歴史の経緯に感謝することも大切だと言えます。

さて、この時代において特に柔術を修養する者には、骨継ぎ・接骨術習得が必須であり、また膏薬などの調合や利用方法も習う必要がありました。
柔術を心得た者は、武芸の指南を行うと共に副業的な形態で治療行為を行なったようです。
特に柔術を心得た者には不良者の存在は無く規律を守り、おのずと倫理を涵養し仁術者と称されていたことは、町民から高い信頼を得ていた証です。

江戸時代には、このように活法から具体的な治療が見出され骨継ぎ・接骨術としての形態を整えつつ、柔術と接骨術も両輪の如く、武道と治療として共に歩むことになったようです。
いずれにせよ時代を問わず節度とマナーを備えた治療家としての姿勢は大切です。

 

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