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東日本大震災から1年 復興への願いを込めて!
【(社)岩手県柔道整復師会会長・及川磨氏】

2012/04/16

―会員の方の活動は、どのようでしたか?

岩手県会員のボランティア活動については、事後報告をしていただきました。かなり長期にわたるということが予想出来たため、あまり短期間で無理をしないように、キチッとローテーションを組み、沿岸部で被災した方から「応援して欲しい」といった連絡が入ると、出来るだけ万遍なく行くように事業部長に指示しました。どうしても親しい人の所に行きやすいということもありますが、こちらがそこまでは采配しないで、各支部でローテーションを組んで、行ける人を募りました。初めての経験なので最初は体制を整えて、被災地域に入ろうと思いまして、まず日赤に電話しました。しかし、今回は普通の災害ではなく特例であるから、日赤のほうから指示が出るまで待機してほしいということでした。従って、その間は沿岸部に行かずに岩手県庁に自衛隊や警察関係の方々が居られて、あの方たちのエコノミー症候群等、そういった症状の方々のケアにあたりました。日赤からの「直ぐに現場には行くな、行っても統制がとれていないのでダメですよ」という指示に従いました。

 

―日整とは上手く連絡を取りながら入っていただいた形でしょうか。

先ほど話しましたように、まず初動は、赤十字の指示待ちでしたから会員の先生達は内陸でボランティア活動を展開しました。結果論ですが、しっかり動けるようになってから現地に入りましたので、慌てずに混乱を招くことなく、その辺は落ち着いていて良かったのではないかと思っております。私が現地に入れたのは3月18日でした。また、理事が分担して入れたのは更にその一週間後でした。現地に行って、〝早く来ても何も出来なかっただろう〟とその時つくづく思いました。後は日整からの連絡で〝欲しい物があったら連絡してくれ、何でもいいから兎に角言ってくれ〟ということでした。現場を未だ把握しきれていない時点でしたから〝分かりました、有難うございます〟と言っている間に、支援物資・慰留物資、例えば薬や包帯等が、大阪府や東京都をはじめとして次々と届きました。また大船渡市と相模原市が提携しているので市からの要請で神奈川の吉田会長が来県されておりましたが、帰る日に連絡を頂きました。やはり皆さん気をつかわれて、帰る間際に事後報告で数名の方々に連絡をいただきました。感謝申し上げております。

 

―この一年間たいへんな苦労があったことと思いますが、現在の率直な感想をお聞かせください。

同じ被災県ではありますが、福島の大変さから比べれば我々のほうは、今こうやって立ち直る切っ掛けを作っているところでもあり、福島が気の毒だったなぁという思いのほうが強くあります。先ほど申し上げた大規模半壊の5名は、殆ど1ヵ月以内で復旧しました。全壊した12施術所の内、5名の方はもう再開業することが出来ました。残り6名の内、1名は埼玉に来月から行くことが決まっております。まだ全く見通しが立っていないのは、2名だけで、あとの方は殆ど見通しが立っています。行政の規制が解かれれば始めるという感じです。なんといいますか、やはり我々柔整師は国家資格免許ですから、自分の仕事に誇りを持っております。皆さんが直ぐ復帰されたということに対して、私は仲間として逞しいと思っています。この1年間で5人も6人もの柔整師が、全て壊され何も無くなったところから、立ち上がって復帰していますからね。全国の皆さんからいろいろと義捐金なども戴いて、実際に私も義捐金を一軒一軒回って配付して歩きました。現金は誰もが必要ですから、届いたら直ぐ届けに行きました。そういう風にやっただけに、やはり皆さん異口同音で言うことは、〝日整の会員で良かった〟と。確かに日整の会員でなければ、こういったことは無いと思いますからね。
道路の閉鎖解除を待って、安否確認と見舞を理事が3班に分かれて周りました。私は大船渡市・陸前高田市に行きました。何度か回りましたけれども、いつも持って行く時は、パン・おにぎりと手袋と湿布薬と歯磨きとタオルの5点セットでした。それを持っていくと皆さん喜んでくれました。とにかく逞しいと思いました。

 

―被害を受けた地域、その町の人口が減少して施術所の経営が成り立たなくなったようなことは無かったでしょうか?

それは、あります。例えば、山田町には当会の会員が3人居りました。その中の1人は、8月に内陸の北上で開業しました。もう1人は今度仮設住宅で、近々施術所を開く予定です。しかしもう1人の会員が未だ仮設住宅で生活しています。やはり人口が減ったので、今後は非常に厳しいと思います。

 

―被災を受けながらも住民の健康やケアにあたられた先生たちは、現在活力を取り戻されていますか?

最初被災を受けたときは、どちらかというと、真っ白な状態でしたからね。最初、避難所で施術のボランティアを行った先生は、〝何もしないよりは、何かしたかった。じっとしているのは、かえって耐えられなかった。今自分の持てるもので、何か力になりたいという思いで一生懸命やった〟と話しておりました。又、その方たちが言うには、〝当初は疲れなかったけど、やはり時間が経つにつれ、自分も疲れてきた〟ということは言っておりました。

 

―発生した当初と、半年ぐらい経ってからの取り組み方は変わっていったのだろうと思いますが、どのように経過していったのでしょうか?

落ち着きを取り戻した半年後位からは、再開のことに関して、何処でやるとか、高台に移転するのか、内陸に来るのか、そういう具体的な情報交換を行いました。現在見通しが立っていないのは2人だけですが、海そのものが、トラウマになっているという話をしていました。もう1人は、お母さんと2人暮らしで、先日話を聞きましたが、本人は高台でやりたい、お母さんは兎に角防波堤の見えるところはイヤだと。ここまで津波が来るのであれば、防波堤は役に立たないので、防波堤の見えないところでやりたいとお母さんが話されていました。