柔整ホットニュース
特集
東日本大震災から1年 復興への願いを込めて!
【(社)岩手県柔道整復師会会長・及川磨氏】
2011年3月11日に巨大な地震・津波・原発事故が起こってから、様々な報道が途切れることなく続いて丸1年が経過した。被災地の復興の進捗状況はどんな感じであろうか。決して忘れるべきでない歴史的事実を後世に伝えていくことが重要である。何時何処で起きるかもしれない自然災害を私達はどうやって乗り越えるべきか、又どうやって尊い命を救い被害を少なくするか等について、被災地の方達から学ばなければならない。まだまだ復興とは程遠い東北を日本全体で支えていくべきである。被災地である宮城・岩手・福島の会長をインタビューし、復興への道筋をお聞きした。
岩手県では、死者4671人(60歳以上65.6%、溺死4197人・焼死60人、圧死・損傷死他230人、不詳184人)・行方不明1354人もの大切な命が失われた。また助かった人たちの生活が奪われ壊された数は、はかりしれない。 助かった方々への支援としては、何が求められているのだろうか?被災した方々が再び立ち上がるためには、我々は何が出来るのだろうか。一歩一歩前に進むしかない。共に生きて支えあうことが出来る社会の構築を目指したい。みんなの力で東北が再生することを願っている。 (社)岩手県柔道整復師会会長・及川磨氏にお話しいただいた。
―会員の方の被災状況について教えてください。
現在、岩手県の会員は、150名です。その中で沿岸部の方が34名です。今回の津波による直接的な被害は、全壊若しくは施術所を失くした方が12人・12施術所で、床上浸水等の大規模半壊が5人です。12人の全壊の中の1人が亡くなられました。家族の被災状況については、父親を亡くした方が1人です。
―地震直後にはどのような行動をとられたのでしょうか?
3月11日は、通常通り仕事をしておりました。私は内陸ですが、今回の震災はかつて経験したことのない震度7でした。午後2時半からの仕事に入ったばかりで患者さんが2人おり、施術している最中でした。揺れが相当長く続いて、それっきり停電になりました。電話も何も一切通じない、携帯も通じないという状態でした。偶々震災の前に大船渡の会員が亡くなられて、3月12日に葬儀が執り行われる予定で弔辞を読むことになっていました。次の日、大船渡に行くつもりで、停電の中で弔辞を書いておりました。全く状況が分かりませんでした。カーラジオで初めて沿岸部が壊滅状態だというのが流れましたが、それでもその時は未だ半信半疑でした。壊滅という言葉がピンとこなかったというか想像がつきませんでした。そこから今回の大震災に対しての活動が始まりました。私の家は、奥州市の市役所の直ぐ隣で、市役所が1丁目1番で私の住所は1丁目5番ですから、自動発電機で他より早く電気が入りました。それでやっと少しずつ状況を知ることが出来ました。
―災害時のマニュアルというのは、既にあったのでしょうか?
当会では、明確な災害時のマニュアル等は未だありませんでしたが、ただ赤十字奉仕団に加入しておりましたので、要請があれば直ぐに出動できるように、組織での出動体制は整っておりました。
―その後の対応はどのような感じだったのでしょうか?
とにかく様子が分からないから、葬式に出席する気持ちで喪服で出かけましたが、山越えする寸前で警察に止められて、〝この先には行けないよ、葬式も何も出来ない状態だよ〟と。当初の予定では、葬式が終ってから、午後には関東学会があるはずでしたから千葉県に行く予定でした。それもキャンセルになりました。その時点でも未だ電話が通じず、そうこうしている内に千葉県のほうから電話があって、キャンセルということでした。携帯にあちこちから電話が入るようになったのは、次の日からでした。ということで2・3日はそういう状態でした。最初は社団の事務所に連絡して、偶々一回だけ通じました。事務所のコンピュータ関係は大丈夫と聞いて、まず安心しました。私の施術所と事務所が65kmぐらい離れており、これから行くと伝えましたが、来てもらっても何も連絡がとれないから、寧ろ動かないで奥州市に居てくださいという事務長からの連絡でした。その後、当会には8人の理事がおりますが、特に沿岸部の34名について、分担して確認を行いました。結局、全てを確認するまでに、1週間~10日位かかりました。