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東日本大震災から1年 復興への願いを込めて!
【(社)宮城県柔道整復師会会長・豊嶋良一氏】

2012/04/16

―3.11が起こって、まず何を考えられ、何を感じましたか。

大地がこんなに揺れるのか、津波がこんなに大きくなるのか、家族の安否は?会員の安否は?仕事の継続は?科学が進んだ現代にこんなことがあり得るのか、夢ではないのか?人の命がこんなに脆いのか、地上の明りの消えた夜空が、これまでに見たこともない位、きれいな星空だったこと等が思い出されます。
また、断水状態であったため、避難所はもとよりドライブインやサービスエリアも、水が流れないので、建物等は2日間で汚物くさくなり、今までボタン一つで流していたものが、電気が来ないから汚物も溜まる一方で、溢れて流れない。ライフラインを失って、文明の利器に頼り切っていた人間の非力さを強く感じました。

 

―期間的にはどのくらい続いたのでしょうか?

全ての会員が被災状態にあって、先ず「活動できる会員から」・「必要なところに」・「活動できる範囲で」、さらには「活動できる地域から」をコンセプトに、個々人によるSVM医療救護活動を開始しました。
もちろん、震災直後から治療室近隣の避難所を回った理事や会員もいました。そして個々人の行動から地域単位への医療救護活動へと体制を整えながら、宮城県及び仙台市災害ボランティア センター、日赤宮城県支部、被災地対策本部、各避難所などとの連携を基に、(社)宮城県柔道整復師会「災害ボランティア対策本部」を立ち上げるまでの3・11から3週間ほどは無我夢中の状態が続きました。
その間、他県公社・社団同志の医療救護ボランティア活動の打診等もありましたが、受け入れられる状態ではありませんでした。
直接被災地に来られても、完全にライフラインを失った中で動けなかったでしょうし、何も出来なかったのではないかと思います。もし来られても10リットルしか給油できない状態でしたし、しかもひどいときは半日や一日かけて長蛇の列に耐えてやっとでした。
当会としても、最初は残っていたガソリンで行動できましたが、ガソリンが切れた状態になってからは我々さえも給油できず、県から救急車両の許可書を発行して頂いてからは動けるようになりました。まして、他県からは様々な人が入ってきて他県ナンバーの車がガソリンスタンドに並んだために、地域住民が家族のもとに駆けつけられなかったという事実がありました。そこで、先ずは宮城県の置かれている状況を、日整の萩原会長をはじめ両副会長に視察していただき、他県からの受け入れ窓口を日整にして頂いた次第です。日整で調整して頂いたものですから、飛び込んで来られたボランティアの方々のコーディネートがスムーズに行えた訳です。その一例として、他県から10人体制で来ることの連絡を日整から受けてから、先に県北の端の気仙沼まで4~5時間かけて当会会員が下見に行き、各避難所になっている学校やお寺さんに対し、ボランティアで来て下さった方々に避難所側が寝るところも兼ねて受け入れて頂けるのか、または、テントを立てるのか、車中泊なのか、寝袋で寝るのか、そのことで被災者や避難所周辺の住民に迷惑にならないかなどを確認しながら、受け入れの了承を取り、振り分けました。
このような緻密なコ―ディネートによって、当会「災害ボランティア対策本部」が何一つ混乱することなく、次々と飛び込んでくる他県からのボランティアの方々を、会員が夫々の受け入れ避難所まで、ご案内させて頂くことができた訳です。
当会「災害ボランティア対策本部」の立ち上げと共に、4月より受け入れを開始し、5月31日までの2カ月間をもって、他県からの受け入れ終了宣言を出せたかと言いますと、最初は個々人の活動から、そして地域で一気に動いて、次に対策本部が組織的に動き、山場を越えたころから、もう一度地域に戻って、地域として、個々人として活動する本来のSVM活動へ機能が回復した時点で、他県からボランティアにご負担をお掛けすることなく、被災地の医療救護に関するニーズに十分応えることができるようになりました。このようなことから、現場が全く混乱せずに済んだ訳です。他県から駆けつけて頂いた大勢のボランティアの方々には、心からの敬意と感謝の念でいっぱいです。

 

―ボランティア組織体系は既に構築されていたということですね。

当会がこれほどの動きと成果を上げ、また被災地や行政から大きな評価を頂くことができた理由を語るには、本業ボランティア「接骨院ボランティア宮城」通称"SVM"を説明しなければなりません。
阪神淡路大震災の時に、当会から15名ほどで被災地に飛び込もうとし、兵庫県や警察署等に申し入れをしたのですが、あまりにも柔道整復師に対する認識の無さからか、「二次災害に備えてください」との一様の回答に飛び込むことができなかった苦い経験があります。そこで、社団法人の尊厳(権利)を守り、かつ社会的義務(責任)を果たすことを目的に、本業ボランティアSVMという組織を立ち上げました。それは、従来型の趣味や特技、余暇などを利用しての、個々でのボランティア活動では「あの先生はいい人だ」と言う個人的評価に留まり、必ずしも我々柔整業界や業務の社会的認識に繋がらなかったことを反省し、これまで長い年月の中で会員個々が培ってきた成果をフィードバックし、社団組織が継続的に会員相互のネットワークを生かした組織型、本業ボランティアSVMを結成したわけです。
何故、「本業ボランティア」なのかについては、例えば手が器用だからといって素人のボランティアに、イスやテーブルを直してもらう、または、髪を切ってもらうよりも、大工仕事はプロの大工さん、散髪はプロの理容師さんにボランティアして頂いた方がより綺麗であったり、安心・安全で、受ける側にとっては当たり前の事と思います。従って、部分医療を業とする我々柔道整復師は、骨折・脱臼・捻挫・打撲・挫傷及び骨・関節運動器系の急性・亜急性外傷の痛みや機能障害に対する保存的療法の専門職なのですから、部分医療救護を主体としたボランティア活動をしようということで、「本業ボランティア」SVMということになった訳です。現在では、県区市町村開催規模のスポーツ現場に県内ほとんどの団体からの依頼を受けながら、年間約200件というSVM医療救護ボランティア活動を展開しています。その中で、新潟中越地震や岩手・宮城内陸地震の時には要請を受けて出向くかたちで活動もしております。これがSVM活動の一つである、SVM「県境なきボランティア活動」の動きです。
社団組織が社会的「尊厳」と「義務」を果たすことを目的に、本業ボランティアをするためのインフラ整備を徹底的に行った結果、組織体制は出来あがり積極的に活動してきました。従来型の個々のボランティア活動から、部分医療を業とする柔道整復師の本業を主体とした組織活動へと発展させたことによって、SVM活動が社会的認識や認知を得ることとなり、しいては柔道整復師制度及び国家資格や業に対する社会的認識や認知へとつながっていきました。そして、次に透けて見えてくる、発展型本業ボランティア活動とは一体「なんなんだ」という、さらなる追求でした。 業界発展につなげようとして活動してきたはずの個々人の活動が、自己の評価だけに留まっていたことに気づかされ、反面、公益を目的として社団組織として活動すればするほど、社会的認識や認知に繋がる事を身に着けた、所謂、スキルアップした会員を、今度は地域に「戻そう」、地域の「資源」と成ろう、地域の「文化」と成ろうということでした。SVM本来の姿を認識し、実践できるリーダーとなれる会員を軸に、県内消防署管轄13地域割にあわせ、各々13地域に代表者を置いて活動を継続していく中で、宮城県全24署と「子どもとお年寄りの避難所」という協定を結ぶに至り、以後、いくつもの市町村と暫時締結を進め、地域に戻り活動し始めて2年ほどしての、この度の震災が起きたという訳です。
この度の未曽有の大震災が、もし地域に戻る前のことであったならば、約3週間弱、本部組織が全く機能を果たせず動けなかった。しかしながら、地域に戻った発展型ボランティア活動が鋭意展開され、当会「災害ボランティア対策本部」が立ち上がり、本格的なSVM活動がされるまでの間を必死に繋いでいてくれた訳です。個々人として、地域として、組織として敏速な活動を行えたのは、此処に辿り着くための16年間、決して"ぶれる"ことの無い「目的」と「手段」をしっかりと示唆し、大局を見極め足元を固める真剣な議論を重ね、理論の構築と行為行動を同時に推進してきた成果であったと思っています。したがって、組織力の完成は勿論の事、社団の尊厳を守り、社団組織の一員として公益を目的に、その社会的責任を果たすことのスキルを持った会員集団のベースが完成したと言えるかもしれません。