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新会長インタビュー【埼玉県接骨師会・阿部会長】

2011/11/16

2011年度は、公益社団法人日本柔道整復師会役員選挙が行われた年であり、その前に全国の社団で役員選挙が行われた。本ニュースでも新しい人事をお伝えした通りである。 かつて、日本柔道整復師会元会長の原健氏は〝意見を述べられない者は会議に出席されないでよろしい〟と述べられたように、ビジョンなき人間が組織のトップに立ってはならない。
本年、新たに会長に就任した関東近県の新会長に抱負をお聞きした!

 

―阿部会長は〝波乱万丈な人生を歩んでこられた人〟であるとお聞きしましたが、かいつまんでこれまでの歩み・道のりを教えていただけますか?

昭和17年、生まれは満州です。父親は満鉄の職員で列車の機関士でした。母は日赤の看護婦として満州に渡り、戦時中は弾の下をくぐってきた人間です。昭和22年12月、猛吹雪の中を命がけで引き揚げてきました。私は5歳でした。父の実家が足利でした。小学校5年生の時に、家族があまりにも多かったので、父は長男でしたが足利の家を出て母の実家である埼玉県所沢に移住しました。私が小学校1年生の時でした。やがて高校に進みましたが、2年の時に中退して、大相撲の世界に飛び込みました。時は、栃錦・若乃花の全盛期、正に大相撲黄金時代で、入門した部屋は、総勢80人もいる春日野部屋でした。猛稽古で傷めた腰を手術して、結果的に5年で辞めました。最高位は幕下、21歳でした。再び高校1年生からやり直しました。群馬県にあった新設されたばかりの高校でしたので、あちこちでボス争いが起こりましてね。些か強引でしたが、私は角界時代で身についた鉄拳制裁でそれらを鎮静化致しました。24歳で高校を卒業し、将来は海外雄飛を夢見て拓殖大学・貿易科に入りました。贅肉が付かず、90㌔にも満たなかった体でしたから、今度は空手部に入りました。拓大というところは、強い右翼思想を持っていた私の性分に合っておりまして、今考えれば随分と無茶な事もやりましたね。3万円しか持たずに東南アジア旅行をしてしまったり、いざとなったら強制送還という手がありますから(笑)。とにかく日本の外に出て、外から自分の国を見つめたいと思いました。日本に帰るに帰れなくなった戦前派の先輩を求めて、学ラン姿で越中ふんどしに〝拓殖大学〟と筆書きして棒の先に縛りつけ、それを担いで台北の街を歩きました。予想通り、お呼びがかかりましたよ。「今でも日本にはお前みたいなバカがおるか?〟とね。その後も、その先輩方には随分とお世話になりました。やがて、28歳で大学を卒業しましたが、目標としていた大手の貿易会社の入社試験には年齢制限があり、私はそれを超えてしまっていました。警視庁・自衛隊も考えましたが、それらも28歳未満に限るとされていました。私も実に愚か者でしたね。やむを得ず、小さな会社に就職をし、結婚もし、子供も生まれました。30歳を超えたころ、ふと考えました。〝こんな給料では、将来、子供にろくな教育もできないぞ〟と。人生、迷ったときは原点に戻れ!が私のモットーでもあります。当時、私の弟が既に接骨院を開業しておりましたし、結局、私も柔整師を目指すことになった訳です。

 

―専門学校は何処に行かれたのでしょうか?

東京柔専です。通学しながら、上野の金井整形外科で修行された、千葉県市原市で開業されている先生の施術所で修行を重ね、37歳で独立、開業しました。当時は、先ず支部の承認を貰ってから県に入会申請する形式になっていました。

 

―開業した頃は?

医療の世界に入ってみると、今度は相手が痛みをもった人、或いはお年寄りだったり、つまり弱い立場の患者さんたちになりました。患者さんが入室してから出て行くまで、気を抜くことは出来ませんし、とにかく優しく接しなければなりません。昔のように〝オイ!〟みたいなことじゃなくてね(笑)。患者さんというのは、こっちが黙って難しい顔をしていたらダメで、こちらから何か話題を投げかけて反応を見ることも大切です。今日は元気がないなあと思ったら、やはり患部にそっと触れてあげることが大事です。それに、私が開業した頃は、子供さんの来院が多かったですよ。所沢小学校は、埼玉県で浦和の高砂小学校に次ぐ2番目に古い学校で、親子4代が卒業するという家庭もありましてね。当時、PTAの会長をしていた関係で、校長は私を校医扱いにしてくれていた時期がありました。そんなことで、子供さんがとにかく多かったです。今は少なくなりましたよ。

 

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