柔整ホットニュース

最新トピック

福島逃避行・矢口接骨院ご夫妻に聞く

2011/06/01

東北大震災で福島から東京に避難してきた接骨師夫妻がいます。 接骨院兼自宅は双葉町。福島第一原発からわずか3キロの場所でした。3月11日午後に被災しましたが13日の夜にはもう東京の弟さん一家の所に避難していたという早業でした。しかも4月4日からは東京の接骨院に従業員として働いているというのです。矢口守夫さん(57)と矢口ちえ子さん(59)ご夫妻はお二人とも柔道整復師。新たな仕事先であるテン十字グループの治療院にお二人を訪ね、震災とその後の逃避行を語って頂きました。

3月11日

矢口接骨院の午後の部は2時から。3~4人の患者さんが来て治療を終え残った1人がトイレに入っていました。突然の大揺れ!治療室の中のものはみな倒れた!何かにしがみついていた!地震は2回あった。患者さんをまずトイレから出して。送ろうと表に出たら前の駐車場が地割れしていた。でもその時は面白がってデジカメで写真撮っていた。となりのガソリンスタンドの塀が私の家に倒れてきたが、まさかこれほど大変な大地震だとは思わなかった。患者さんを1キロ先の自宅まで送って行ったが、その途中道路が隆起していたり寸断していて町内を抜けるのが大変だった。町内の古い家屋が軒並み倒壊。ぺチャンという状態。防災無線綱で「津波が来るぞ」と放送があった。それでもチリ地震の経験があり、防波堤を津波が超えることは無いと思っていたのでのんびりしていた。奥さんはまず倒壊した室内の掃除。おばあちゃんとの3人家族で猫7匹、鶏7羽。土地も広くて私設動物園のような家だった。まずおばあちゃんを連れて避難させて引き返して次に奥様。白衣にジャンパーをひっかけたままの姿で高台の双葉中学校に避難した。中学校からは津波の様子は見えなかった。中学校で一晩過ごした。ストーブは無く寒かった。夜中に自衛隊のトラック2台ジープ1台とともに救援物資が届いた。毛布と白いオニギリ。水。中学校は住民で一杯。名前を書かせられて貼りだした。水が出なくて、プールから水をリレー運び。テレビが無いので地震の全体像はわからなかった。その日は毛布で寝た。

3月12日

朝4時に車でおばあちゃんの薬を取りに家に戻った。家は無いかも?と思ったがあった。でも玄関が傾いて開かない。薬を取って、猫に餌をありったけやって戸を閉めて出てきた。でもその時はすぐに帰れると思っていた。朝7時。「緊急避難」の放送があった。守夫さんは東電の職員の知り合いから連絡を受け原発が大変な状態であることを知った。接骨院開業から30年。原発の職員はまわりにたくさんいた。いままでの生活で情報も入っていた。これは大変なことになる。炉心溶融もあり得る。水素爆発の危険性もある。これは逃げるしかない。5キロ10キロではなくて100キロ以上逃げないと駄目だと直感した。守夫さんは必死の思いだが身内親戚20人のうち騒いでいるのは自分だけ。奥さんも家から離れたくないという。守夫さんは奥さんと親戚20人を必死で説得して25キロ離れた南相馬の親戚宅に車で向かった。朝9時ごろには親戚宅に着いていたという。
そして親戚で皆テレビにかじりつき。ここで初めて地震・津波・原発危機の全貌を知ることとなる。そして午後原発の水素爆発。守夫さんは、ここ南相馬でも危ないと直感。東京へ逃れようと決意する。しかし親戚身内に呼びかけても誰1人家に戻ると言って譲らない。戻っても家は無いと説得しても誰も信じようとしない。結局奥さんとおばあちゃんともう1人、近所の91歳のお婆ちゃん(身内が見つからず一人ぼっちだったので車に乗せて連れて来た)だけが同行することとなった。

 

前のページ 次のページ