第31回日本柔道整復接骨医学会学術大会開催:文化講演編
2022年12月3日・4日の2日間、「臨床と学術の融合~Shoulder ver.~」をテーマに、第31回日本柔道整復接骨医学会学術大会が開催された。本学会はリアルとオンラインのハイブリッド形式にて行われた。
「変わる力・変える力」と題して、帝京大学空手道部師範・監督の香川政夫氏が講演を行った。
第1章
私は大阪出身で昭和30年生まれです。おふくろが41歳の時に私を生み、おやじは50歳で、4人兄弟の末っ子でした。長男とは11歳違い、9歳、6歳という年の差でしたから、当時は一人っ子みたいな感じでした。大空襲の後の焼野原の大阪の天王寺区です。母は産後体調を崩して病院に長く入院しており、当時兄弟はみな小学校に行っていましたから私を母親の病室に預けて学校に行っていた。親父は、外に働きに行っており家に居ませんでした。
その中で3歳の時に赤痢になった。病室で泡をふいて倒れたそうですが、それが良かった。病院で直ぐに診て頂き、赤痢ということで隔離された。国立桃山病院の病室に運ばれ、金網ごしに兄弟が面会に来る。私は鳥かごのような所に放りこまれた感じで泣いていた。また5歳位の頃に肘を骨折しました。うっすらしか覚えていないが、和田アキ子さんのお父さんが私の父の親友で、「ほねつぎ」を開業されていた。其処に運ばれて診て頂いて首から包帯を巻いて腕を板で固定した形で居るように言われ、あまり覚えていないが、痛みがなくなると固定を外してしまったらしい。その後、野球を始めたが、球を投げている内に肘が痛くなる。おかしいなと気が付いた。俺の肘はもうまともにはならないと分かった。私の夢は野球選手になって有名になって貧しい家をなんとか楽にさせたいとその頃思っていたので、ひどくショックを受けました。
大阪という土地柄、やんちゃな者が多かった。兄が私の最初の空手の先生だった。兄に〝ちょっと空手を教えてくれる?〟と言ったら、〝なんでだ?〟と問われて、〝喧嘩に強くなりたいから〟と言うと〝教えられない〟の一言で、断られました。それが中学3年生の時です。私は勉強が嫌いだったので、中学を卒業して4月に、町工場で働いたが1か月で辞めました。当時私は15歳で、ベルトコンベア式で流れてくる部品を一日中、30歳位の人と立って向き合ってその人と気が合わないと仕事にならない。まあ地獄でした。ということで親戚の紹介で、町工場に行きました。ここで大学に入るまで4年間勤めました。この鉄工所では、油まみれでした。
1年経った後、定時制の高校に入りました。ここが第一のターニングポイントです。人生拾えたんです。なんと同級生が50歳とか24歳とか、男女2,30人位いました。自然に目上の人に対しての言葉づかいとか態度が身に付きました。昭和47年に日本空手協会の全国大会に兄が出て、〝最後になるかもわからないから、お前行くか?〟と言われて、行きました。新幹線に乗るのも初めて、東京に行くのも初めて、日本武道館に入った瞬間、凄いと感動しました。その中で兄が優勝しました。知り合いの人間が兄の道場の生徒で、優勝した瞬間、私に壇上に登って一緒に胴上げしようと言われたが、私は空手もやっていないのにそんな聖域に行けないと断りました。
帰ってから兄に空手を教えてくれと言って、兄は二つ返事で〝おまえ、覚悟はできているのか?〟って言いましたが、覚悟って何だかわからなかったが空手を教えてもらうことになりました。そこからが地獄でした。大会等の時に、一歩下がって鞄持ち、最初の稽古は一か月、突きだけ。壁に向かって、かまえて突く。突きが終わったら、壁に向かって蹴っておけです。半年後、兄に組手を教わって鼻を折られました。何が起こったか分からない。そういう状況の中で一発目の洗礼を浴びて、空手というものがどういうものかというのは私の心に突き刺さっています。
第2章
兄はよく夢を語っていました。日本一になったら、世界どこでも胴着一つで回れるという話をよく聞かされていた。私は大阪の貧乏長屋、焼野原の跡の掘っ立て小屋で育ちましたから、まさか自分が大学に行けるなんて夢のような話でした。〝でも行けるのかな、よし空手で強くなって〟というところから始まった。帝京大学に真っ先に声をかけて頂きました。たまたま師範が兄の親友の阿部圭吾先生という方で、阿部先生が教えているのが帝京大学。其処に秀野通泰という先生が学生課長でおられて、帝京大学にお陰様で入学することになりました。
この道筋で私の人生が変わりました。ヨシ帝京大学で日本一にという気持ちになりましたが、当時はそんな実力じゃなかった。空手だけではない、先輩、後輩の縦の社会の真っただ中にいました。本当に稽古よりきつかった。心折れそうになりましたが、夢は捨てきれず、辛抱と我慢の連続でした。のちにこれが本当の世界だというのは分かりました。3年生の時に初優勝しました。ここがまた一つのターニングポイントでした。渋谷先生という方がおられて、兄の親友で其処に下宿することになりました。先生は武蔵五日市に住まわれていたので、朝はトラックで市場に私も一緒に買い出しに行く。神社に100段の階段があり〝おい、そこで10往復して帰ってこい〟と。こういうのが一つの修業の場だと思っていました。足腰もお陰様で強くなり、朝起きるのは大阪にいた時から平気でした。2年間いた中でハッキリ言って実力が伴わなかった。自分自身で決めて、先生に〝大学の近くで住み込みでアルバイトしながらやります〟と、出たのが3年生の時です。アルバイトを転々としながら、いろんなことをやりました。両親は早くに他界して、仕送りなしに自分で稼ぐということを決心しながら、アルバイトで横道にそれちゃう人が多かったが、めげずにプロになって、日本一になって、世界一になって、主将で世界をまたにかけるという思いでいたので、それから主将になり、いろんなことを経験しながらプロの世界に入りました。
私は、人生、出会いと思っています。その中に笑いあり涙あり、感動ありの人生を楽しく如何生きていくか。夢をもち続けることの大切さを今の学生にも話しています。私はプロになって実績を上げて、最初に帝京大学の監督・師範に阿部先生という方の交替ということでなりました。しかし、中々勝てない。どんなに稽古をしても勝てない。私は推薦で引っ張ることが苦手でした。自分からすすんで来ない人は強くなれない。来る者は拒まず、去る者は追わず、ただし練習してもベスト8止まり、しかし関東大会2位になりました。それでも優勝できない。
その最中、ある人から〝合宿所を作るしかないよね〟と言われ、心が変わりました。帝京大学を日本一にするためにという思いで平成8年12月に寮が完成。これを手掛けたのが私の2歳後輩の守屋君、後にOB会長になって私の弟分です。なんでも彼に相談して、やってくれました。残念ながら昨年コロナで他界しました。合宿所が城になったんです。初優勝が、平成10年11月の大学全日本選手権で男子が初優勝しました。その前の6月、秀野先生が他界しました。長年癌を患いながら戦っていました。先生の病室を訪ねて意識が朦朧としている最中〝全日本優勝しますので、観にきてください〟と言ったら、先生がなんと言ったと思いますか?〝香川君、墓場で聞くよ〟と。この一言がズッシリ重くて私も涙あふれる、先生も涙流す、あの空間の時間というのは時間が止まっていました。言葉にならなかった。秀野先生が一言、〝香川君、無念や〟と。まさに無念だったと思います。その意を受けて、見事に優勝しました。それから今日までずっと渋野先生の墓参りをしています。年3回、これは一年の行事予定になっています。渋野先生との約束を私は一生忘れないと思います。今日までやってこれたのも先生のお蔭だと思っています。
第3章
確かに寮というのは、生活の一部です。練習、朝練、食事、寝食を共にする。私は、5年間女房と子供を連れて入りました。ルールは、女房が作りました。女房は当時静岡で一番強い高校でバレーボールをやっていました。クリスチャンの高校で躾を厳しく教えられたと言っていました。私以上の厳しさがありました。当時、寮でのミーティングに女房も参加します。私は一生懸命熱弁をふるいますが〝貴方は何所見て話しているの?〟としょっちゅう怒られました。心ここにあらず、あの子はその内辞める、案の定辞めました。私はそういうところまで見抜く力が無かった。それからは、ミーティングをする時には、必ず端から端まで見ています。ただ空手を教えるだけではダメだということ、見抜く力というものを寮生活の中で私自身も勉強になりました。
同じ建物の中に塀一つ無く男女が生活しています。当然お風呂、トイレは別です。でも食堂、リビングルームは一緒、何が起こるかといったらよくある話ですが恋愛が起こります。これは今でも禁止です。好きになるのは勝手、思うのも勝手ですが、行動に起こしたら即退部という約束の下です。そういうルールの大切さ、ならぬものはならぬ、ダメなものはダメ。ハッキリしています。情動教育という言葉があります。母親が子供に教育する中で、一人前、独り立ちするために如何生き抜いていくか。物覚えが良いとか、計算したりするといった知的能力以前の教育です。人間としての感受性や優しさを育むのが情動教育だそうです。躾をもって子どもを育てる、厳しさと愛情、こういうことを私も思いながら学生に接しております。
今68になりますが、日常生活、1年を通していろいろなことが4年間あります。家族同様にとらえて先輩・後輩は兄弟、師範監督の私は親父という立場の中で本当に家族だということをよく言っています。そうでなければこの合宿所は真っ先に潰れます。いろんなことがこれから先もあると思いますが、学生と共に、今年は13年ぶりに優勝、4冠達成、全日本大学優勝43回、前人未到です。寮が出来てから、素晴らしい記録で、その記録を更新中です。この挑戦をし続けるために目標を夫々が持って稽古をしています。
本当にやる気のある子たちが来ます。帝京に来る子たちは厳しいことを覚悟で来ています。毎年定員オーバーしながら希望者があって、本当に有難く思っています。そういう選手が今度はコーチになり、指導者、先生になって、高校生を教えているのも現状です。学生が財産、OB、OGが財産、人が財産だと思っています。私の財産全てを投げうって現在も指導しています。学生が優勝した時の感動、辛いことも苦しいことも嫌なことも全てを忘れさせてくれる。13年ぶりに4冠、完全優勝したというのは、夢が途絶えていない。それは学生達が成長してくれた証だと思っています。そしてコーチ、スタッフ約10名います。こういう人達が私の考え方を紐解いて学生達に教えて、それが本当に良い結果になって表れているのが現状です。その環境を作ってくれた帝京大学の今の理事長・冲永佳史先生の理解と武道を奨励して頂いている証だと思います。そして、栄養面をしっかり支えて頂いているお蔭で今年の全日本大学選手権全く違いました。他の大学生と較べものにならない。これが自信の元になっています。やはり根性だけでは勿論勝てません。環境と寝食を共にした中での栄養面、規則正しい生活、これが三位一体でなければ今の帝京大学はあり得ないと思います。
私の現役の時にチャックウイルソンという方が私の専属トレーナーでした。トレーニングした時の言葉が忘れられない。ある時、二日酔いでトレーニングに行きました。二日酔いでも、ある程度空手の練習は出来ますが、トレーニングは出来ません。重いバーベルを持って反復練習をして10回、何種目もやります。物凄くハードで、徹底しています。その時に言われたのが〝酒を辞めるか、稽古トレーニングにするか、どっちをとる?〟と。私は中途半端は嫌いなので〝解りました、トレーニングをとります〟と。そこからです。それが最終的に今の科学トレーニングの始まりです。私は昭和57年からそれをやっていました。根性論、私はとっくにもう卒業しました。チャックさんから疲れない細胞を作るトレーニングということを言われました。悲鳴を上げました。例えば、100キロだったら60キロのバーベルを10分間やる訳です。1分休んで10分、50分と、そういうことをやりました。それを徹底してやったお陰で優勝も出来ましたし、それでいま現在があります。
第4章 「科学の力と基本」
基本があって型破りなことが出来る。基本なくして形無しと言います。これは、芸能の世界ですが、武道、空手も同じです。亡くなりましたが中村勘三郎さんという方がおられました。あの方が歌舞伎で初めて宙づりになるのを取り入れた。しかしあの方は、歌舞伎の古典、基本を徹底してやったそうです。その指導は今の子ども達二人に受け継がれました。まさに目からうろこ。基本なくしてあり得ない。私はそれを兄から教わった。徹底的に基本をやる。でも基本って地味なんです。それは、嫌いな料理や野菜を味付けを工夫しながらお母さんが子どもに食べさせるのと全く同じです。基本練習を如何に工夫して学生に教えていくか、興味を持たせるか。これが指導者の役目だと思っています。ただヤレじゃない、昔はそれで良かったが、今それは通用しない。チューブトレーニングというものを編み出してチューブを使いながら力をつける基本によって、軌道とかフォーム、軸がぶれない。それを徹底して行うことで、力がついてくる。その結果、試合で勝つことが出来る、これがサイクルになる。そういう稽古のぶれないやり方は、未来永劫に続くと思います。試行錯誤を重ねながら、その時代その時代の選手に合わせながら〝これが大事だよ〟ということを如何に教えるか。
今の練習は、完璧だなんて私は思っていません。ルールが変わるようにどんどん変わっていくでしょう。それは、また挑戦だと思っています。私は教育者ではありません。空手の師範です。何が起こるか分からない今の時代に学生を導くための教育、どうやってこの時代に生きていってくれるのか。学生達は大人になって自覚し、自尊心を持って、人を思いやる気持ちがわかる、器の大きい人間になってもらいたい。これが私の最大の目標でもあります。人を育てることの大切さ、いま現在、進行中です。新しい挑戦を持って学生を引っ張って、自分自身も帝京大学のために更にどういう風に名をはせていくか。終わりなき闘いであると思います。
会場からの質問1:
帝京大学の空手部には意識の高い空手家達が集まってくるということでしたが、大学になんとなく入ってしまった学生もいると思いますが、そういう子達に対して我々教員が何か出来ること等ありましたら教えてください。
香川:
簡単そうで難しい質問です(笑)。意識の高い学生を教えるのは逆に簡単かもわからない。やる気を起こさせる部分の切っ掛けというのは、凄く大事です。どんなことでも良いから基本的にその学生の良い所を〝変わったね、良くなったね〟といった誉め言葉は、私もプロの世界に入ってそこの先生に褒められたことがある。それは駒沢大学の大石監督ですけど本当に上手かった。心に沁みる誉め言葉を言われると多分皆さんも忘れない言葉ってあると思います。私はその先生に見習って、どんなことでも誉めるようにしました。それがその選手の些細な目標になりそれを切っ掛けに変わっていく。そういう選手、学生を見てきましたので、是非やってみてください。
会場からの質問2:
師範はこの13年間の間で躾や指導の面で、考え方が変わられた面がありましたら教えて頂きたい。
香川:
ある意味ぶれていない。私この13年の間、いろんなことがあって戦いながらも変えなかった。何時か勝てるだろうと信じながら、それを学生に指導しながら、常に新しいことを、自分自身の感性を磨いています。是非いろいろなことに挑戦しながら、ぶれない信念を持つことって大切じゃないかと思います。
〇まさに「変わる力、変える力」というタイトルに相応しい答えを述べて終了となった。
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