第19回日本統合医療学会が開催!
第19回日本統合医療学会が平成27年12月12日(土)・13日(日)の2日間、山口市民会館で開催された。2日目の午後1時30分から市民公開講座が開かれ、多くの山口県民が参加した。
市民公開講座『心の国造り~先人に学ぶ人間愛~』
Ⅰ部 「花燃ゆの時代-吉田松陰の門下生-」
市民公開講座『心の国造り~先人に学ぶ人間愛~』Ⅰ部 「花燃ゆの時代-吉田松陰の門下生-」と題して、萩博物館特別学芸員であり、至誠館大学特任教授で防府天満宮歴史館顧問、『幕末維新の城』『吉田松陰とその家族』『吉田松陰と高杉晋作の志』、また『花燃ゆ』批評で知られる一坂太郎氏が講演を行った。座長は、山口県医師会会長・小田悦郎氏が務めた。
一坂氏は、〝幕末から明治維新を駆け抜けた志士たちが日本の未来、新たな国造りを如何考え実行していったのか〟について講演。以下、要約である。 山口県は、かつて周防の国と長門の国と呼ばれ、江戸時代は長州藩或いは萩藩と呼ばれていた。統治していた毛利家は萩に藩校明倫館という学校を創設、山口県内各地には長州藩の重鎮が20校位学校を創っている。私塾が8、寺子屋は山口県だけで大体1300~1400位あった。いま山口県にあるコンビニの倍くらい学ぶ場所があったというほど教育が熱心に行われていた。
吉田松陰は天保元年・1830年、萩の松本村に長州藩士・杉百合之助の次男として生まれる。杉家は、禄高26石で中の下くらいの武士の家。祖父七兵衛が大変な本好きで、学問好きの一家であった。父・百合之助は、朝から畑仕事に兄・梅太郎、大次郎矩方(のちの松陰)を連れて農作業をしながら学問を教えた。父は全部暗記している歴史の本を諳んじて子供たちに聞かせ、子どもたちはそれを覚えた。松陰は妹が4人いて、直ぐ下の千代という妹は、松陰から大変可愛がられ93歳大正の終わり頃まで生きたが、明治の終わりから大正にかけていろんな雑誌や新聞に子どもの頃の思い出話、松陰はどんな子供だったかということを語っている。しかし、千代はドラマでは抹殺されている。兄弟が沢山いて面倒くさいとして消されたようで、ドラマというのはそういうものである。2番目の妹が寿(ひさ)、3人目の艶は早く死んで、4人目の文(ふみ)は、最初は久坂玄端の妻になったが、亡くなって揖取素彦と再婚、大正10年まで長生きした。
今から22年前の平成5年、初めて私は東京の揖取家に資料を見せてもらいに行き、未だその時は、明治40年生まれのひ孫の方が生きていて美和や揖取素彦と14歳まで一緒にいたので知っていた。〝散歩に行ったらおばあちゃんの美和が凄く喜んで僕の頭をなでてくれた。賢い、賢い、松陰のようだと言ってくれた〟という話を聞きました。美和や揖取素彦を知っている人が、未だ平成の頃に生きていた。私にとってはそういう意味で、『花燃ゆ』というドラマに生々しさがある。末っ子の敏三郎は、耳が聞こえなく言葉は喋れなかったが風貌は松陰そっくりだった。殆ど家を出ることなく、明治9年、30代の若さで病死した。松陰はこの弟のことが非常に気にかかっていたようで、九州に行った時にはお寺に行って一生懸命〝耳が聞こえるようになってほしい、言葉が喋れるようになってほしい〟と祈っている。兄弟の中にこういう社会的な弱者がいたということは、松陰の人間観、弱者に対する眼差しが培われたのではないかと思います。
〝どんな家に松陰は生まれ育ったのか?〟とよく聞かれるが、ちょっと堅物のお父さん、ちょっと楽しいお母さんで、私はごく普通の家だったと思います。何故、松陰のような非常に純粋で国のこと、大義があると思えば脇目もふらず突進していく人間が生まれてしまったのかというと、それにはやはり理由がある。松陰の叔父である大助が養子に行って継いでいたが死亡したため、松陰が吉田家に入って6歳で当主になった。そこから松陰の運命が大きく変わり始めます。
吉田という家は武士の家だが特殊な家で、山鹿流兵学師範の学者の家だった。将来は学者になるために徹底したスパルタ教育、エリート教育を受ける。官から命ぜられた数人の学者が朝から晩までマンツーマンで専門知識を徹底的に教える。実の叔父さんにあたる玉木文之進も先生の一人に選ばれ、松陰に勉強を教えた。有名な話で、ある夏の日、玉木文之進と松陰(といっても6歳か7歳の子供)がマンツーマンで勉強していたところ松陰のおでこに虫が止まった。松陰は本を読みながら何げなくおでこに手をやって、虫を払いのけた。すると、玉木文之進が烈火の如く怒って、いきなり殴る蹴るのすさまじい折檻をしてしまう。松陰は〝許してくれ〟と泣きわめく。〝何故そんなに酷いことをしたのか?〟。先生の言い分としては、〝松陰がいま本をひろげてやっている学問・勉強は松陰のためにやっている訳ではない。松陰がそこで身につけた学問を将来藩のために役立てる、殿様のために役立てる、ひいては天下国家のために役立てるために今勉強をしているんだ、公のことをやっているんだ。公のことをやっている最中に虫がとまって痒い。お前は今、公私を混同した〟というのが激しい折檻の理由だった。
この理由にハッとさせられるものがあるとすれば、いま勉強というのは、私のためにあると言われます。〝なんで勉強しなければならないの?〟と子どもが大人に聞いたら〝貴方は面白くないかもしれないが、ゆくゆく学んでいけば良い学校に入れ、良い学校を出たら、良い仕事につけて楽な暮らしが出来るかもしれないから今一生懸命勉強しておきなさい〟というのが、今の勉強の意味であり、それは全く違うのではないか。ドラマで末梢された妹・千代が後年話しているのを読むと、松陰は子供のころ他の子供たちと遊ぶことがなかった。いつも本を読んでいた。松陰には幼馴染がいない。学校に行かせてもらえなかった。学校というのは、知識を身につける場所だけではなく、友達を作って社会のコミュニケーションをいろいろ学んでいくのが学校の役目でもあるのに、松陰はそういう機会を奪われてしまった。私は凄く悲しい子供だったと思います。とにかく大人たちの期待にそむいちゃいけないという気持ちが一生懸命あった。9歳の時に明倫館という学校に教授見習いで行き、12歳の時に藩主毛利慶親の御前講義を行い、19歳で一本立ちの教授になった。もの凄い早熟な子供で、徹底して純粋培養されたのです。幕末のあの時代、時代の壁に風穴を開けるにはやはり松陰のような人物が必要だったことは確かであり松陰が歴史上における意味というのは、歴史に風穴を開けるというところにあった。
松陰は何に衝撃を受けたのか?
産業革命を成功させ資本主義を確立した西洋の影響。広大な市場を求めてアジアへ西洋が力づくで押し寄せてきている時代だった。隣の中国ではイギリスがアヘン戦争をやって、中国をやっつけて上海を国際貿易港として開かせ、あちこちにイギリスの領事館を作り、香港を取り上げる、そういうことが隣の中国で行われていて、次は日本がやられる番じゃないかといった危機感が松陰の中にふつふつと沸き起こり、その危機感に突き動かされるような感じで、21歳まで一度も山口県から出たことがなかったが、4~5か月九州を廻ってきたことで、人間が変わったように松陰は行動の人になった。
萩に戻って3か月ほど経ち、江戸に勉強に行った。江戸でいろんな人に出会うが、自分の心を動かしてくれるような先生が居ない。江戸で学問をしている先生は、学問で飯を食うためにやっているような先生ばかりだと言っている。しかし全国から江戸に集まってくる友たちと交流して、特に仲良くなった宮部鼎蔵ら3人で東北旅行を計画する。ロシアがどんどん南下を始めているから自分たちで視察して防備を調べておこうと東北に行く。
今であれば何とかしてほしいという若者はいっぱいいるが、彼等は自分たちで何とかしなければいけないと思った。やはり江戸時代の武士だと思います。天下国家の一大事が起こった時は「イザ鎌倉!」という掛声にあるように、真っ先に自分がかけつけなければならないという教えを受けている。江戸時代というのは200年以上、天下太平であったが、こういう教えはちゃんと受け継がれていた。幕末の頃になって外圧がアジアに押し寄せて来た時に「イザ鎌倉!」ということで、みんな立ちあがった。長州だけではない。全国各地、薩摩や土佐、敵対した新撰組や会津藩にしても「日本をなんとかしなければいけない」と、みんな思った。そういう人たちがいっぱい居た時代だった。
何故若者たちがいっぱい出てきたのか?
松陰が九州に行った時、長州藩に国防の意見書「水陸戦略」を21歳の松陰が出しています。長州藩というのは3方を海に囲まれているので何時外国から攻められてもおかしくない。その備えをキッチリ固めなければならない。そのために松陰は2つ大事なことがあると。
まず2つ目、「防御」をしっかりしなければならない。銃を買いこんだり、軍艦を買いこんだり、沿岸部に高台を作ったり、なんとかここを守るという住民の士気を高めなければならない。それよりも大事なことで一番目に大事なのは「仁政」であり、需教の教えで慈しみの心である。つまり弱い者を大事にする国、そういう政治がキッチリ行われている国であれば、その国を潰しにくる者がいたら国民はなんとしてでも自分の国を守ろうとする訳で、その上で防備があれば良い。従って「仁政」と「防備」、この順番を間違えてはいけない。私は、これが松陰の言っていることで一番凄いことだと思うのです。愛したいような国を先に作ること、それが政治家の役目です。先に愛したいような国をつくり、そうすることで自ずとみんなが国を守ろうと防備を固めていくべきだと言っています。
松陰は、半年位かけて東北地方の防備をみっちり視察して帰ってきたが、江戸を出発する時に藩の手形・許可証を貰わずに行ったため脱藩罪に問われ処分を受ける。嘉永6年・1853年5月の終わりに松陰が江戸に行って10日位あとに江戸で大事件が起こる。アメリカのペリー率いる黒船4隻が江戸湾の稲田沖にやってきて、幕府に開国するように求めた。実は、幕府は1年位前からやって来る情報は知っていたが一切秘密にしていた。来年返事をするということで、ペリーは日本を去ったが、黒船を見た松陰のショックは大きかった。外圧というものが日本人の前に目に見える形で表れてきた。これを払いのけなければいけない。払いのけることを「攘夷」と言う。
日本という国は3000年独立を続けて来た。松陰は、この独立を続けるためには〝志あるものが何とか払いのけなければならない〟と叫ぶようになる。松陰が尊敬していた佐久間象山は〝これからの日本は、東洋の道徳、西洋の芸術、これで行くべきだ〟と唱えていた。東洋の道徳というのは需教であり、道徳はこれまで通り弱者を大事にする需教の教えでいこう。西洋の芸術は絵や音楽ではなく、科学や技術のことで、これらは西洋からどんどん取り入れることで独立国として生き残っていくことを選ぼうと考えた。
ペリーが2回目に日本にやってきて「日米和親条約」が締結された。自由貿易についての条約ではなかったが、鎖国を200年以上続けてきた日本が国際社会に大きく乗り出したことは確かであり、ペリーの力で扉を半分こじあけられた。松陰は下田港から夜中にこっそり黒船に近づき、ペリーに乗せてくれと言う。〝アメリカと日本はその内、自由に往来出来るようになるから我慢しなさい〟と追い返され、自主して出て伝馬町の牢屋敷に投獄される。「世の人は よしあしごとも いわばいえ 賎が誠は神ぞ知るらん」は、松陰が失敗した時に詠んだ歌で〝世の中の人は、密航だなんて馬鹿なことを考えて、大変なことになるのは分ってるじゃないかと。悪口言うんだったら言え。自分の真心は本当に日本の将来を思ってやったことで、神様さえ知ってくれればいいんだ〟という強い気持ちを詠んでいる。幕府は非常に寛大で、やったことは悪いけれども、日本の将来を真剣に思ってやったことだと認めて、半年経って松陰を萩に送り返す。
松陰は、萩で囚人相手に孟子や孔子の講義などを行い、獄の風景をガラッと変えたという有名な話もある。叔父の玉木文之進が主宰していた松下村塾の名を引き継ぎ、杉家の敷地に松下村塾を開塾。松下村塾が凄いと思うのは2年ほど教えただけで、教わった学生は90人ちょっと、殆どが近所の子供たちで下級武士の子供だった。塾の中から、久坂玄璃という医者の子であり長州藩士で凄く学問が出来た。松陰はとにかく気にいって自分の妹を嫁にだした。しかし、彼は尊王攘夷で、下の関で外国船を撃ち、追放され失地回復をはかるが、25歳の若さで京都で切腹。高杉晋作は、幕府の視察団に加わって上海に渡り、上海が西洋の支配に置かれているのを見て危機感を強め、日本に帰って奇兵隊をつくる。やがて奇兵隊を伴って幕府と戦うが、29歳で結核のため維新を前にして亡くなる。禁門の変で戦死した入江九一、寺嶋忠三郎、有吉熊次郎、京都で切腹した松浦松洞、戊辰戦争で切腹する時山直八。明治維新まで生き残った前原一誠は、明治政府の三位まで務めたが萩の乱を起こして処刑される。山田顕義、初代の司法大臣で現在の日本大学・国学院大学の基になる学校を作った。品川弥二郎は内務大臣やドイツ行使など務め、現在の農協JA、信用金庫などの元になる団体を作った人。伊藤博文は、幕末の頃にイギリスロンドンに秘密留学し、明治最初の総理大臣で4回総理大臣を務め、最後はハルピンで暗殺されるがドイツ式の憲法を真似ながらも日本にピッタリ合う憲法を作らなければならないということで明治22年に憲法を作った。日本はアジアで最初に憲法を運用した国で日本をあなどっちゃいけないという気運が世界に出てきた。野村靖は逓信大臣、山県有朋は奇兵隊で活躍し明治になってから陸軍大将元帥になり国民皆兵、日本の軍隊の基礎をつくり総理大臣を2回務めた。軍隊を作ることによって日本の独立を守っていった。
夫々門下生が頑張った。この門下生たちは全国からえりすぐりの者を集めてきたのではなく、本当に近所に住んでいた子供たちであり、これが凄いところである。人材というのは、指導者が育てるもので「人賢愚ありと雖も 各々一二の才能なきはなし 湊合して大成する時は必ず全備する所あらん」。〝人間という奴は愚かな奴も賢い奴もおる、これ当たり前だ。しかし一つか二つかの才能は持っている、そこを引っ張って伸ばしていけば必ず人材になれるんだ〟ということを松陰は言っており、人間の才能というものに対する絶対的な信頼が松陰にはあった。一人一人と話していろいろ議論させながら一人一人の長所を伸ばしていくことを松陰は一生懸命狭い塾の中でやった訳です。
何故、塾生たちはそこまで松陰に影響を受けたのか?
それは松陰が自分でやって見せる先生だったからで、日本が危ないと思ったら脱藩して東北に行ってしまう。或いはアメリカが来たら、その船に乗って密航しようとする。そういう体当たりの生き方がまさに〝俺たち頑張らなければいけない〟という気持ちにさせられていったのでしょう。生意気な高校生みたいな10代後半の若者に、嘘や偉そうなことを言ったって、ついてこない。感受性の強い生意気な少年たちは〝こいつは凄い!〟と思った。自分でやってみせる人だった。自分の姿を見せることによって感化してしまった。だから短い間にこんな狭い塾でこれだけの人材が生まれたのでしょう。松陰が最も大切にした「志を立ててもって万事の源となす 書を読みてもって聖賢の訓をかんがう」。今は、医者や弁護士、政治家にしても最初から目標ばっかりがある。「志」というのは自分の心を真っ白にして、最大限に自分をこの世の中に活用させることを私は「志」だと思っています。そのために学問をするのです。松陰は〝外圧から日本を守るために自分は働きたい〟自分の「志」はそこにあると。しかし松陰の志に反することが起こります。幕府がアメリカのハリスと自由貿易を骨子とした「日米修好通商条約」を結んでしまう。イギリス、フランス、ロシア、オランダとも同様の条約を次々と結んでいく。日本は全面的に開港をする。孝明天皇が激怒、天皇と将軍の対立が幕末の政局に大きな影響を及ぼしていくことになる。松陰は、激しい反対をして、幕府の老中を殺すと言い出し、安政の大獄で江戸に送られ〝私は死罪に値する罪をおかしてしまいました〟と取調べの時に幕府側に言います。安政6年、1859年10月21日、30歳の若さで江戸の伝馬町で首を切られてしまいます。9年後に明治維新という大きな政権交代を迎えるが、政権交代が行われただけで明治維新がなったのではなく、憲法を作ったり、軍隊を作ったり、国民皆兵をやったり、中央集権をやったり、急激な近代化を進める中で、その中心になったのが松下村塾の塾生たちであった。
※2年後は明治維新150年という節目にあたる年で、反省しなければいけない点も多々あり、そういうものを含めて明治維新150年を迎えたいと思っています。今から101年前に第一次世界大戦が始まった年に、地球上の陸地の84%が西洋の列強の支配下にありました。実は日本はアジアで唯一の独立国であり、16%の中の1つであることを考えると松陰の「志」は、大変なことだったというのが分ります。また松陰とその門下生が残した「志」が今日も受け継がれているのではないでしょうか。
市民公開講座『心の国造り~先人に学ぶ人間愛~』
第Ⅱ部 「心と魂を考える―人間性と仏性―」
演者は、法相宗大本山薬師寺管主・山田法胤氏、座長は日本統合医療学会最高顧問・阿岸鉄三氏が務めた。長い歴史の中で培われた仏教仏閣を通じ、人とはどうあるべきか、また心とは何か、正しいとは何か、如何に生きるかについて話した。
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