何故、柔道整復は国民に支持されてきたのか?の記事一覧
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【第12回:柔道整復師倫理綱領】
柔道整復師の養成校は全国に14校、卒業者数は毎年1000名程度でありました。この規制により、健康保険の一部である療養費の取り扱いを基本とする柔道整復治療現場において、国民ニーズに沿った業界バランスが保たれていたと考えられます。ところが平成11年の福岡裁判により養成校規制が解除されると、全国に柔道整復師養成校が乱立しました。年に1000名程度の卒業生数が、5000~7000名となり柔道整復の供給は過 […]
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何故、柔道整復は国民に支持されてきたのか?【第11回:単独法獲得に向けた請願運動の継続】
単独法獲得に向けた請願運動は尽きることなく継続され、昭和42年の定時総会(社団法人全日本柔道整復師会)において議決を行い、より強固に獲得運動を展開することになりました。 第六十一・第六十二国会では廃案となりますが、第六十三国会(昭和45年3月17日)で衆議院を通過し、参議院社会労働委員会(昭和45年3月31日)を通過し即日、参議院本会議において全会一致で柔道整復師法が可決成立しました。 第六十一国 […]
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何故、柔道整復は国民に支持されてきたのか?【第10回:柔道整復界の黎明期】
昭和の中期から後半は、柔道整復界の黎明とも言える時期を迎えます。昭和28年11月に社団法人組織として認可され、法人設立後には「骨折・脱臼治療に係る医師の同意書」が撤廃され、「医師から同意を得た旨を施術録に記載することにより同意書の添付を必要としない」とする通知が発令されました。昭和43年には金井良太郎会長が勇退され、後任は行岡忠雄医博が就任されます。これまでの歴代会長は、概ね医師(医博)が就任され […]
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何故、柔道整復は国民に支持されてきたのか?【第9回:新たな法的身分の確立】
昭和22年12月20日「あん摩、はり、きゅう、柔道整復等営業法」が制定公布されました。この時期における連合軍最高司令部GHQの命令は絶対であり、柔道整復は廃絶の危機を迎えますが、日本独自の伝統的医療として、法的身分が新たに確立しました。 進駐軍衛生部PHWによる禁止勧告に対して厚生省医療制度審議会は、「鍼、灸営業については、盲人には原則として新規には免許を与えないとし、柔道整復術営業についても、原 […]
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何故、柔道整復は国民に支持されてきたのか?【第8回:非医業禁止勧告による消滅の危機】
前号でお伝えした通り終戦直後に、省令の改正という形式であったものの「按摩術営業取締規則」から「柔道整復術営業取締規則」として単独法成立に向けた悲願達成もつかの間、PHW(進駐軍衛生部)による非医業禁止勧告により、歴史上再び大きな消滅の危機に直面します。 これは我が国の衛生面の向上措置や武道の禁止に乗じて、いわゆる東洋医学的治療そのものに対する偏見的な捉え方も加わった禁止勧告であったと言えます。 P […]
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何故、柔道整復は国民に支持されてきたのか?【第7回:柔道整復の単独法獲得に向けた活動】
おおよそ80年前、健康保険の特例として柔道整復に療養費の委任払いが認可されました。 内務省社会保険部の川西実三保険部長・清水玄保険課長両氏による英断によって、昭和11年1月22日に取り扱い発令、同年4月1日より保険取り扱いが開始されました。前号でお伝えした特例受領委任方式の開始ではありますが、柔道整復師の法的身分については非常に不安定な位置づけであり、按摩術営業規則の準用という形式には変わりがあり […]
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何故、柔道整復は国民に支持されてきたのか?【第6回:昭和時代の骨継ぎ・接骨術】
大正9年、明治時代の接骨術禁止から約40年もの期間を経て、按摩術営業取締規則の“準用”という形式であるものの、柔道整復術を行う者として身分が確立しました。 第1回の柔道整復術試験の合格者を中心として組織された大日本柔道整復術同志会は、大正11年4月に大日本柔道整復師会として正式に設立されました。(大日本柔道整復術同志会の発足が、現在の公益社団法人日本柔道整復師会の前身であると言えます。)この新たに […]
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何故、柔道整復は国民に支持されてきたのか?【第5回:大正時代の骨継ぎ・接骨術】
明治政府の新たな医療政策によって接骨術は大きな危機を迎えることとなり、苦難とも言える歴史的事実を残すことになりました。明治18年に接骨営業が禁止となり、明治44年に按摩術・鍼灸術の営業取締規則が制定され接骨術者は、その殆どが按摩業者の門下生となります。いわゆる按摩術に隠れて接骨術を行うという苦肉の策で業務を行ったようです。 さて、大正時代を迎えると大審院判決により「医術開業試験を経た者でなければ接 […]
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何故、柔道整復は国民に支持されてきたのか?【第4回:明治時代の骨継ぎ・接骨術】
いよいよ我が国は幕府による統治から近代国家として、明治の時代を迎えます。多くの接骨術者は柔術を修めた武道家であり仁術をも心得て不良者は無く、信頼ある身分であったと言えます。ただただ残念な点は、同業者間における相互交流や流派を超えた技術研究などが行われたかったことでしょうか。各自は柔術を修養した武道家であり、いわゆる一国一城の主であることから我が道を貫くという精神で歩んでおられたのでしょう。この特色 […]
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何故、柔道整復は国民に支持されてきたのか?【第3回:江戸時代の骨継ぎ・接骨術】
和蘭医学が栄えた江戸時代には、江戸と大坂に明らかな違いがあり、我が国の科学史上ひとつの特色だと言えます。江戸における蘭学者は、幕府の役人や藩医らが多く彼らは社会的に上士階級層であり、その学究姿勢は蘭学の注釈・考証・解説・翻訳などを目的に没頭したようですが大坂の蘭学者は、その殆どが民間人であり、少数の上いわゆる町人学者と呼ばれる者が多く、常に批判的・客観的態度を失わなかったと伝えられます。一方、接骨 […]
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何故、柔道整復は国民に支持されてきたのか?【第2回:柔道整復の源流】
鎌倉時代から室町時代(およそ1200年~1500年頃)に活躍された事実上の軍医と呼べる金創医たちが表した医書から、鷹取流:鷹取甚右衛門秀次(兵庫)、神保流:神保宗左衛門(富山)、吉益流:吉益半笑斎、永井流、板倉流、蔵實流、板坂流、大野流などの流派が存在し、呪術的な一面を併せ持ちながら医家として、また接骨術としても活躍をされたことが読み取れるようです。その治療方法については、前回表したように完全な秘 […]
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何故、柔道整復は国民に支持されてきたのか?【第1回:古代における柔道整復】
柔道整復は日本古来の伝統医療として、時代に応じた国民ニーズをその存在の根拠として認められ、今日にまで至っていると表しても過言ではございません。編集部では、これらの経緯を踏まえつつ新たなテーマで皆様への発信を致して参りたいと存じます。どうか本年もご愛読賜わりますよう宜しくお願い申し上げます。 何故、柔道整復は国民に支持されてきたのか? それでは大略的な歴史的経緯から紐解いて参りましょう。 柔道整復師 […]
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