スペシャルインタビュー:参議院議員 石井苗子氏 後編
日本維新の会参議院議員・石井苗子さんは女優、同時通訳という華麗な経歴の持ち主であるが、難病を患う妹の介護を決意し1997年に聖路加看護大学を受験。看護学を学び、さらに東京大学医学部大学院に進学し、修士・博士課程に進み2008年に保健学博士号を取得し保健学の研究者となった。
その後、都内の病院でカウンセラーとして勤務しながら2011年に勃発した東日本大震災医療の医療支援プロジェクトチーム「きぼうときずな」のリーダーとして被災地で健診活動を8年継続している。しなやかさと逞しさを兼ね備え、政治家としての資質も申し分ない石井さんに、今後の取り組みについて、真摯かつダイナミックに話して頂いた。
参議院議員
石井 苗子 氏
―石井先生は、1997年聖路加看護大学看護学部に入学され2002年に卒業。同年、東京大学医学部の大学院に進学されました。在学中は健康科学・看護学を専攻し、修士・博士課程に進まれ、2008年に博士号を取得されています。学位論文のテーマが、「健康診査受診勧奨のためのキャンペーン介入研究」とあります。キャンペーン介入研究とは、どういうことなのか、教えていただけますか?
東大の学位論文は、2014年の高齢化を見据えて、2004年に研究計画を立て、2008年に提出しました。
前回のインタビューでお話した社会保障制度の崩壊や、地域包括システムのような社会が将来くるだろうと思って、医療制度は予防医療にシフトしていくだろうと感じたのは、2002年の修士課程のころでした。高齢者が増えていく中で、社会保障制度のように制度疲労を起こしていくのを、どうくい止めるか、そんなことを考えていました。
個人が自分の健康状態を把握していなければ、将来、自分の医療費がどのくらい大きくなっていくかもわからないのではないか?と思ったのです。日本は、「かかりつけ医」に普段から予防について教えてもらい、将来の医療費を考えるというサービスがありません。予防医学は浸透していない社会なのです。これは今もあまり変わってません。
日本人は病気になると専門医に診てもらいたがる人が多い。臓器の数だけ有名な医者がいるという状態ですし、日本人は身体の具合が悪くなると、自分で眼科だとか耳鼻科だとか選んでクリニックに行きます。かかりつけ医や地域の健康診断で普段から健康状態を診てもらっているという習慣がありません。治療代も薬も安いから、悪くなってから医者にいく、国民皆保険で専門医に診てもらって治してもらうこともできます。
そういうこともあって、社会保障制度の中でも医療や介護の給付金は膨らんでいってしまう。将来は、もっとそうなっていくだろうと、当時、大学の机に肘をつきながらボーっと考えていました。制度がきしみ始め、制度自体が疲労してくる中で、なんとか維持していかなければならないなら、個人に自分の健康状態を知っておいてもらわなくてはならないと思いました。
企業に勤めている人はよいとして、国民健康保険に入っている高齢者の方々にもっと無料の健康診査を受けてもらうにはどうしたらいいだろうかと考えました。無料健診を充実させて、高齢者の方々が、ご自身の10年後にはどういう体になるのかということを知っておく必要があるのではないかと。またそのことの大切さを、今の段階でどのくらいまで理解してくれているのか、それとも関心が全くないのか、そこを知りたいと思い、研究論文の骨子を提出しました。
その研究をやらせてもらえるフィールドを探すのが本当に大変でした。日本の複数の自治体にひとりで交渉し、やっと、千葉県の鴨川市の保健センターが協力をしてくれることになりました。健診に来る方が少なくて困っていらしたようなのです。
鴨川市は約3万人の人口都市で健診を受ける権利のある人全員に、通達を出すのですが、毎年、40%しか来ない。そのほとんどの方が健康オタクのような方々で、リピーターしか来ないという状態なのです。来ない人は一度も来ない。宣伝や広報をやりつくしても、受診率が上がらない。そこで私が提案したことは、「来ない人に、どうしたら来てくれるかを聞いた方が早いのではないですか?」でした。つまり来るように宣伝するのではなくて、来ない人を徹底的になぜ来ないのか調べるのです。来ない人が来たという結果を出す研究をしようと思いました。
健診説明会のキャンペーンで介入をかけ、そのキャンペーンの多さと範囲の大小で、どれだけ健診受診者が増えたかを測る。これが私の論文構成です。
キャンペーン介入とは、地域ごとに健診についての説明をすることを指して言います。地域ごとのキャンペーンの多さに差をつけるのです。差をつけることを介入と言います。例えば、一軒一軒家を回って「あなたは健診受けていらっしゃらないようですが、どういった不都合があって行かないですか?」という介入をしたところとそうでないところの差をつける。来ない理由をしっかり聞いて、次に健康診断を受けることのお得さをしっかり説明すると、「じゃ、いってみようか」となることが多い。しかし、一軒一軒訪問するのは時間がかかりますから、介入できる人数に限界があります。必ず来てくれるかどうかも解りません。もちろん個別訪問した方は来る人が多かったのですが、時間をかけて少ない人数を拾うのでは限界があって、健診受診の向上につながりません。ここがキャンペーンの密度をどのくらい強くすればいいのかの難しいところです。
前回の地域包括ケアシステムのところで、「意識改革、行動変容」という言葉を紹介しましたが、健診も同じことで、多くの人の意識改革をもたらし、健診に行こうという行動変容の結果を出さなくては、介入に効果があったとは言えないのです。
ちょうど選挙で個別訪問してポストにチラシを入れても、候補者本人が回った効果とは比べ物にならないのと似ていて、健診も責任者が訪問したほうが印象を深く残せるのですが、だからといって全戸を回るのは大変なことです。さらに「健診保健センターからきました」と玄関まで訪ねていっても、「うるさい!」と言われることがありました。健診のお知らせを郵便受けに入れて、「来てください」の案内なんて、ゴミ箱に行ってしまうことが多いことも調査でわかりました。
最終的には、どのくらい介入をした地域が一番来てくれたかの集計を出し、普遍性の統計を出していくのです。キャンペーン介入の回数や、どのくらいの人を集めてやったところのが受診率アップに一番効果が高かったかを受診率に反映して統計を出していきました。
個別訪問をした家、小さな集落ごとに会合を開いて集まってもらって説明会を開いた地域、そして大きな会場で広範囲を対象に講演会などを開催して健診の宣伝をした地域と、分けたのです。介入した地域と、今まで通り何もしなかったところを比べて、受診率の上がり下がりを観察して統計を出しました。あきらかに介入を丁寧にしたところからの受診が上がったのですが、町を挙げてこうした健診キャンペーンをやるのは大変なことです。健診の勧奨にこまでお金や人手をかけるかそこも経費と相談しなくてはならないのが現実です。
やはり長い時間をかけて地域ぐるみで、個人の健康状態を丁寧にピックアップしていくしかない。「地域包括ケアシステム」の構想に入っていくべきでしょう。これが研究の結論です。
興味深かったのは、「健診になぜ行きたくないですか?」の質問に多かった答えが、1位「今、病気じゃないから」2位「今、病気だから」3位「病気が見つかりたくないから」だったことです。おわかりのように、ここの意識改革を起こすことが肝心です。中には健診に行くと医者に売られると言う人までいました。
健診は医師との付き合い方をご自身が決める方法を見つけるためにあって、何をさておいても自分の健康状態を知っておくことが先なのです。あなたのために、お得になりますよ?と、ここの説明が腑に落ちれば、「健診、受けようか」という気持ちなるのです、あなたのためですという印象をどう残すかなのです。ここが意識改革に必要なコツです。病気があってもなくてもいい、どこまでの治療をするかもゆっくり医師と相談すればいい。気弱になる必要はない。十分元気でいられる方法が必ずある。だから行動変容を起こしましょうと、そこの辺を上手く説明できた地域は、80%ぐらいの受診率を上げることができました。
人は「悪いことは言わないから俺の言う通りにしろ!」といっても、なかなかその通りにはしてくれません。その人を信用していなくては、その通りにやってはくれません。まして自分の体のことならなおさらです。しかし、いずれ病気が見つかったときに、いきなりガツンと来ることは精神的にも辛いものです。心の準備をしていたのといないのでは、その後の生き方も人生も大きくかわります。
意識改革をして行動変容をした人によく見られるのが、自慢話です。「あたし、以前はこうだったけどね?今はこうするようにしたの、そしたらね」といった風に。自慢話になるぐらいになっていけばいいのです。それが年を取ってから賢く健康になる秘訣です。
健康の準備を楽しみながら、自分を変えていく。お得感がない限り、健康診査なんかにわざわざ来てはくれません。健康診査で生活指導を受けて、ここまでよくなったのよ、と言ってもらえるような地域包括ケアシステムを、地域で作っていかなくてはなりません。
―また石井先生は、都内の病院で心療内科のヘルスカウンセラーとして勤務もしていらっしゃるようですが、カウンセリングをしている患者さんに寄り添うことから医療現場で見えてきたことなどお聞かせください。
もう12年になるでしょうか、病院で働いております。この12年で患者さんの数は4倍近くに増えたと感じています。ずっと同じ病院にいますが、お給料をもらえるようになったのは最近で、それまでは研修生をやっていました。地域医療に係る保健師という資格で診察に参加するのが研修生です。
私の現場は月曜から土曜日までチーム医療が3ユニットで動いております。予約・問診・診断・検査・カウンセリング・治療・処方といった順番があるのですが、看護師、医師、カウンセラーたちでユニットを組んでこなしています。私は診察室で電子カルテに診断の内容を入力していく仕事を今はやっております。患者さまのおっしゃることをまとめてカルテにまとめて書くのですが、直接話を聞くこともあるので、沈黙と緊張が重なる作業です。
カウンセリングは今のところ、医療心理士が専門的にやっている事が多いのですが、3年前に国会で法案が通って、今後は国家資格として公認心理士が誕生することになりましたので、これからは医療心理士で公認心理士という国家資格を持つ人がカウンセリングの仕事を広い範囲でやっていくことになるでしょう。
患者さまの気持ちに寄り添うとはどんなことかという意味で、参議院議員になる前の2016年に一冊の本を書きました。「病と向き合うことは自分を育て直すこと」(ワニ・プラス出版)です。病気で悩む人、心がつらくて苦しい人、家族の理解を得られない人、医師と上手く付き合えない人に読んでいただきたい本になりました。自分を育てることを、私は「育自」と呼んでいますが、本の中で、おひとりおひとりに話しかけるように書いたつもりです。
現代人のストレスは、大量の仕事を、早く、正確に、1人でやれと要求されることです。長年のストレスが蓄積して、合併症の複雑な処方が必要で、かつ治り難い状態になった患者さんが多く、1人の患者さんがなかなか長期治療から卒業できずにいることが問題です。不定愁訴といって、何が原因で倦怠感が増して、具合が悪いのか、どうして体が辛いのか解らずに、精神科の治療を受けても一向に治らないうちに気が重くなり、状態が悪化する。病が合併し、複雑化して治り難くなっていくと同時に、人間関係といった社会のストレスも非常に複雑になってのしかかってくる。自分を見つめなおして治療方法を選ぶことが大切です。「病と向き合う」ことは、「自分を育て直す」ことです。
―東日本大震災被災住民支援プロジェクト「きぼうときずな」で活動されていらっしゃいますが、これまでの活動内容と今後どのような支援を継続すべきとお考えでしょうか?
私は国会議員になってすぐ、東日本大震災復興特別委員会の理事に任命されました。2016年のことですから、2011年から5年の間、支援活動を通して政治にふれてきたことが認められたのかもしれません。
2011年からすでに8年目に入っていますので、被災地の状況も変化があるのは当然です。
先のご質問の答えで、2011年当時の6人の避難者が3万4千人に減り、半分になったという数字や、84%の農地が回復したとか、宮城、岩手、福島県の水産加工施設は93%の設備が回復されたと聞くと良くなっているように思えますが、二重ローンを強いられていることが解らなかったという方がいらしたり、個別の問題は複雑に残されたままで、健康状態もよくありません。半分は避難生活をしていますし、住宅が高台移転が完成していても閑散としていて人が入ってない。そんな状態です。
2011年を振り返ってお話をしますと、当時としては大変なプロジェクトをNPOで立ち上げてしまいました。「きぼうときずな」は、今でもネットで入力するとその時の大変な様子の動画が出てきます。私は3月28日にいわき市を視察に行きましたが、うちのめされて戻ってまいりました。
一度東京に戻って部隊を立て直すために、聖路加看護大学の卒業生や縁のある方々に、6千通の看護ボランティア活動の依頼書を書きました。看護師か保健師の資格を持っている方々に限って活動に参加していただきました。私のチームに医師は入っておりません。聖路加看護大学の日野原重明先生や、当時の学長井部俊子先生、そして山田雅子看護実践開発研究センター長の指導のもと、1年間で述べ1075人を福島県の被災地現場に派遣して、現地の保健師の方々と一緒に医療支援活動をしました。最初は避難所、夏以降からは仮設住宅、そして借り上げ住宅の皆様を土日も訪問して、健康状態をお聞きし、保健センターの記録に残していく仕事です。交通費を節約するために、仮設住宅に住み込んで活動をしておりました。これはフジテレビで放送されたこともあるのでご存知の方もいらっしゃるかと思います。
聖路加看護大学の学長とか偉い方々がボス的存在でいらっしゃいますので、緊張感もありましたね。私と私の同僚たち、そうですね8人ぐらいが組織作りの中心的な仕事をしたり、現地の活動のまとめ役をやったのですが、全員が同じ色のジャケットを着て恰好いいのですが、どういうわけか私はコーディネーター役もやらせられることが多くて、現地に泊まり込みで保健師の方々とスケジュールと人員体制のすり合わせをしたり、「私にも格好いい役をやらせてよ」って思ったぐらいです(笑)。
一番大変だったのが寄付金集めでした。お金が集まらなくて、ほとほと困っていたところへ、韓国の韓流スター、ペ・ヨンジュンさんが医療支援車を3台私のNPOに寄付してくださったのです。驚きました。P号と名付け、1号2号3号と呼んでました。その後、聖路加看護大学のキャンパスにP号を1台置いて、道行く人から募金を集めました。私は1日7時間立ち続けていたことがあります。動画に残ってますけどね。そうしたら、日本中のヨン様ファンから募金があつまりました。おひとりが100万円出してくださった方がいらっしゃいました。たしか四国の方でしたね。
現地とのコーディネーター役は本当に問題解決ばかりに走り回るものです。だからこそで行政の方々と話をしたり政治と触れあうキッカケになったわけですけれど、国会議員になったら、もっとコーディネート役は複雑になっていきましたけどね(笑)。
現在は福島県のみなさまの暮らしや生活を助けていくようなプロジェクトを実施しています。震災から2年目3年目からは、自立困難になっていく人の精神的サポートをしていったのですが、何の役に立っているのか解らず、自問自答するような日々でした。
2018年の今も3回、福島県や宮城県に行っております。今は先ほどの「地域包括ケアシステム」の一環として働いておりますね。
血圧を測り、内臓脂肪、骨密度、自律神経のバランス測定、筋肉の付き具合の測定などを、スーパーマーケットの中で実施することもあります。生活指導というのではなくて、私が聴診器を当てながら、日々の困っていることなどをお聞きしながら、医師との付き合い方などを含めて医療アドバイスしています。先ほどお話した、お得感を育てているのです。
「買い物にスーパーにきたら、なんか得して帰ったような気分」と言ってもらえる。いろんなパンフレットや健康食品のお土産などお渡しすると「タダでいいの?」なんてお聞きになる方もいらっしゃるんですよ?「これはNPOのプロジェクトですから、もちろんです」と申し上げております。
最近は、現地とますます協力して仕事をするようになってきています。たとえば現地で人手が足りない仕事、電話での相談や健診の勧奨などを東京のコールセンターでお引き受けするといったような仕事です。集計をとったり、分析したり、その後の指導計画を福島県の現地の保健師さんと一緒に計画したりもやっています。
私といえば朝、早く東京を出発して、夜中の12時に帰宅するといったスケジュールで動くこともありますが、月平均2回のペースでやっております。
いったん災害ともなりますと、地元の保健師と応援にかけつける保健師の受け入れ体制など、まだ整っている日本ではありませんが、そうしたことを国会で提案しても、なかなか審議してもらえません。今後は頑張って保健師の社会的ポジションの向上をめざしていきます。なぜなら、避難所において保健師の果たす役割は大きいからです。
―難病に苦しまれた妹さんを介護し続けていたとお聞きしております。2010年に妹さんは亡くなられたとありますが、聖路加看護大学や東大で勉強されたときも、病気で苦しまれている方々を救いたいと思われていたのではないかと、こちらが勝手に思っておりますが、2012年に「愛は地球を救う」(24時間テレビ)に出演されて、当時のことが初めて紹介されました。経緯などご紹介していただけますか?
妹は筋萎縮症という病におかされていて、背骨もS字型に曲がっておりました。最終的には婦人科系の癌もわずらっており、私はずっと自宅でみとりたかったので、聖路加看護大学を受験して、いちから看護学を学び、看護師と保健師の資格を取りたいと思いました。女優の前に、通訳の仕事をしているときは海外に出かけてたりしていたのですが、20代のとき両親を立て続けに癌で亡くし、姉妹そろって親がいなくなってしまったので海外での仕事をやめキャスターや女優としてお金を稼いでおりました。
医者になればいいのにとよく言われましたが、違うのですよね。介護学を学習したかったのです。福祉についても学びたかった。どうして大学に?と聞かれるのですが、広範囲で勉強すれば大学院に進学して将来は研究者になる道もあると当時は思ったからです。40歳を過ぎてから受験勉強を始めましたから、大変でした。予備校にも通いました。勉強がすきなんですね?なんて言われるのですが、勉強がすきなら高校時代にもっとまじめにやってたと思うんですよ(笑)。頭がいいんですね、なんて冷やかされますが、とんでもなくて。偏差値も高くないので、人の何倍も勉強しないと合格できませんでした。国家試験だって、聖路加の現役時代から予備校に通っているのは学生で私ぐらいでしたし、東大に合格したあと周囲の現役学生についていけなくて、すぐに辞めようと思ったくらいです。しがみついて卒業したというのが本当のところでしょうか。
やっと東大を卒業できた2008年から妹の具合が悪くなっていき、2010年の猛暑の夏に、星のように逝ってしまいました。ひとことだけ「おねえちゃん、もういいから」と言い残してね。
6か月後に東日本大震災が起きました。そのころの私は、身も心も妹に半分もっていかれたような精神状態でしたので、被災地で支援活動をやりなさいと言われても最初は迷いました。自分にはできないと思ったぐらいです。
妹は家で守っていればいいのだと思っていたのですが、彼女の最期のころになって、地域の保健センターからアドバイスが入り、「地域包括ケアシステム」の中で、ヘルパーさんを入れるように言われました。最初は妹も私も躊躇したのですが、結果は良かったと思っています。むしろなぜもっと早くそうしなかったのかと後悔しております。
その人の社会性とは、その人自身のものであって、他人があれこれ決めることではないんですよね。とくに家族は感情移入があるので、当人より家庭の事情を先に考えてしまったりする。私の妹もそうでしたが、勇気をもって他の方々のアドバイスを受けると、社会性の窓が開かれるのです。
キャスターや女優をやっていたから、派手な世界にいるのだろう、まさか自宅で妹を看ていたとは思ってなかった人がいたようですが、妹がいたおかげで今の自分があるのではないかとすら思います。二人とも20代で両親が病死したり、私はその後の芸能界の荒波にもまれて辛いこともありましたが、それがなかったら今の自分がなかったかもしれません。追いつめられた時のエネルギーをどこにむけるかで、その後の人生が変わるのかもしれませんね。
―石井先生は、法務委員会にも所属され、子供の虐待をなくすためには、民法の改正で特別養子縁組の年齢を引き上げが必要だと思っていらっしゃる。さらに厚労委員会の理事でもいらっしゃるとのことですが、今後はどのような目標をお持ちですか。当ホームページは柔道整復師の方に読んでいただいているホームページですので、お考えをお聞かせください。
まず最初に、柔道整復師の方々は「地域包括ケアシステム」の中で、今後、重要な役割を果たしていかれると思っています。予算委員会で、私は機能訓練指導員の役割を重視して理学療法士、作業療法士、言語聴覚士、柔道整復師、あんまマッサージ指圧師、看護師、准看護師を、医療資格者として働いていただきたい、職の場を確保していく必要があり、医師だけが活躍していればいい時代ではないと申し上げました。
平成30年度の介護報酬改定で針灸師も追加されました。身近な存在である接骨院・整骨院の柔道整復師の方々が、今後は存在の進化が注目されていくと思います。
柔整師の方は、骨折・脱臼・打撲・捻挫・挫傷を手技療法で施術する運動器系疾患のスペシャリストであることをもっとアピールするべきですね。レントゲンをとる資格も認められるべきです。日本維新の会はレントゲンをつかえるように法案を国会に提出しました。
スポーツ分野ではトレーナーとして活躍もできると思いますし、機能訓練指導員やケアマネージャーとして柔道整復師の方々の職責は大きく社会をリードしていただきたいです。ただ都道府県でばらつきがあるのが残念ですね。全国平均50人ですが、東北や東海、信越、北陸、山陰、九州などは平均以下です。柔道整復師の方々は、あらゆる既得権益に飲み込まれずに活躍してほしいと、予算委員会で述べました。
柔道整復師という名称はWHOで認められているので変えられないそうですが、「柔道をやっている人たちがなる職業かな」と誤解されやすいですよね。柔道をやってない人はならないってイメージもあるようです。一見、身体が頑丈そうな男子が多いからかもしれませんが、女性もいらっしゃるんです。そういう意味で名称は、柔道セラピスト、さらには柔道を英語でJUDUにかえてJUDUセラピイサロンとかにしたらどうでしょう。
地域包括ケアシステムの中でも理学療法師って何する人だろうって興味をもってもらえるのに、柔道整復師と言ったとたんに「柔道やる人ね」と勘違いされるのはもったいないですものね。
整形外科との専門職争いがあるという話も聞きましたけれど、時代が変化してますので、地域進出の規制緩和も必要でしょう。高齢者の方々が整形外科に必ず通わなくてはいけないってことはないんです。最初からJUDUセラピイの方が気持ちがいいとなればいいわけです。
私は剣道をやりますが、稽古で股関節を悪くして歩けなくなるほどになったことがあります。何年も整形外科に通いましたが、5年治りませんでした。「なにやってんの!」って感じでしたね。背骨の矯正施術に変えてから、1年でよくなりました。整形外科は麻酔をかけて手術をするのが得意ですが、身体をかえって悪くするだけということもないとは言えません。ここらへんも日本人は医者だけが正しいことを言っていると信じて、自分中心のケアを選んでいないところがありますね。
さて、最後になりましたが、法務委員会に今年はチャレンジすることになったのですが、日本の土地が海外に売られていることが増えていっている問題とか、高齢化に合わせて家の処理や相続などの法律を急速に変えていかなくてはなりません、忙しい時代です。
養子縁組でも、普通の結婚をして子孫を残すことが当たり前だという考えではなくて、親を選びたい子供の主張を優先していく養子縁組制度ができないのかと思っています。養子縁組は子供が幸せになる選択肢のひとつなんです。子供だって選ぶ権利があるので、養子縁組制度でも年齢を上げて、子供の方から「この家の養子に行きたいです」といえる権利を与えてもいいと思う。日本は長い間、結婚や出産について「これが当たり前」という感覚が強かったんです。女は結婚して子供がいて一人前とかね。離婚なんてしないものとか。「子供がいない女に子育ての意見をいわすな」と言った男子議員もいました。思わず「授からない人の気持ちを考えてますか」と言いそうになりました。私は選択肢を増やしていくことが正義だと思っている人間で、「これが従来のあるべき姿」を固辞していたら、世の中は何も変わらないと。
アメリカに勉強にいったときに「ああ、ここが違うな」と感じたことがあったんです。家庭電化製品を見てると、テレビなどは耳の不自由な方のためのディバイスは最初からセットされていて、定価が決まっている。日本は身体の不自由な方はそれぞれ考えてお金使ってオプションで機能をつけてくださいって国ですよね。障害者は特別にお金を払ってくださいという社会です。そろそろ逆でいいのではないかなと思います。健常者と障害者の区別はそんなに必要でしょうか?高齢者が多くなれば、もっと一緒に便利になっていかなくてはならないと思います。
―ありがとうございました。石井先生の2018年の抱負を聞かせてください。
こちらこそ、ありがとうございました。
今年は予算委員会、決算委員会、厚生労働委員会、法務委員会、東日本大震災復興特別委員会の他に、国際経済、外交調査会という新しく外交の仕事も始めます。忙しくなりますね。
海外国内の視察団に入るかもしれませんし、本会議もあり、とにかく「一日、一生」の思いで務めてまいります。
石井苗子氏プロフィール
東京都浅草うまれ、横浜育ち。
私立山手学院高校卒業。アメリカワシントン州に留学。ルーテル教会の牧師宅に滞在し州立大学に通学し、帰国してから上智大学を卒業。水産庁の日米漁業交渉団の同時通訳をやりながらテレビのニュースキャスターをTBS「CBSドキュメント」で6年務める。故・伊丹十三監督にスカウトされ映画「あげまん」の準主役で女優デビュー、その後数々のテレビドラマで活躍したが、1997年に難病をわずらう妹のために聖路加看護大学に入学、卒業後は東京大学医学部に進学し、修士課程・博士課程を修了し2008年に保健学博士号を取得。看護師・保健師・ヘルスケアカウンセラーとして都内の病院の心療内科で12年勤務している。
東日本大震災NPO「きぼうときずな」のプロジェクトリーダー。
近著に2016年「病と向き合うことは自分を育て直すこと」(ワニ・プラス出版)。
2016年参議院選挙全国比例・日本維新の会公認で初当選。
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