ビッグインタビュー:現代教育行政研究会代表・前川喜平氏
文部科学省・元事務次官の前川喜平氏は、いま現代教育行政研究会の代表を務めるかたわら、多くの講演活動と執筆活動を続けられ、また自主夜間中学でも学習支援活動をされている。
義務教育は、人間の権利であるとして数々の発言と近年増加し続ける貧困問題にも取り組み、子ども達を地域社会で育てる仕組みが大事であり、そのためには今の社会構造を変えていく必要があるとしている。
前川代表に真の教育とはどういうものなのか、拡がる格差をどのように是正するかをお聞きした。
格差が拡大する社会において、子ども達を地域社会で育てていく仕組みが求められています!
現代教育行政研究会
代表
前川 喜平 氏
―『子どもたちをよろしく』という映画で制作をご一緒された寺脇研さんが〝私の子どもを考えるのではなく、すべての子どもたちを「私たちの子ども」として見てほしい〟と仰られています。また前川代表は、その映画で主演をされた鎌滝えりさんとの対談で〝子どもを育てる力は地域にこそある〟と話されております。それについてお考えを教えてください。
「子どもたちをよろしく」という映画で訴えたかったことの1つは、子どもたちは社会の中の存在だということです。決して親の持ち物ではありませんし、親だけに育てる責任を負わせるということも出来ないと思います。学校に全て負わせるのも間違っています。今は学校の先生方も物凄く大変です。しっかりした保護者の下で育っている子どもは良いけれども、世の中にはそういう保護者の下に生まれていない、育っていない子ども達も沢山います。この映画で描かれた子ども達は、家庭の中に非常に問題がある子ども達です。しかしながら子ども達には何の責任もありませんし、その子ども達に自助を求める訳にはいきません。また公助ということで、お金さえ付ければ良いのかというと、そうでもありません。
子どもの貧困というのは、単にお金が無いだけではない。お金が必要であることは間違いないけれども、子どもの貧困対策としては非常に不十分だと思います。ただ高校や大学に行くための財政的な支援をもっと充実させるべきだとは思いますが、お金だけでは子どもの貧困は救えない。子どもの貧困という中に経済的貧困だけではなく、いわば社会的貧困というものがあって、それは子どもを取り巻く社会、子ども達を取り巻く人間関係が非常に貧しくなっています。家庭の中だけでは不幸になってしまう子ども達のために社会が支えなければなりません。社会といっても、やはり地域社会です。子ども達の生活圏の中でその子どもの生活を支えることが大事です。
―地域社会で子ども達を育てていくというシステムが求められているんですね。
学校を1つの拠点にして、地域が子ども達と関わるという。これは1つの新しい生き方だと思っています。いま文部科学省でも、地域と学校とが共に子ども達のために働こうという「地域学校協働活動」を盛んに言い始めており、「コミュニティスクール」という学校の運営形態が拡がり、3割位の学校が「コミュニティスクール」になってきています。「コミュニティスクール」というのは、地域の人達が学校教育に関わって、「学校運営協議会」を置いて、地域の意見や保護者の意見を学校の運営に反映させるものです。しかし、運営に参画する前に、日常的な教育活動、日常的な学校生活に地域の人が関わっていくことが大事なんですね。「PTA」もありますが、学校や教育委員会の下請け仕事みたいなことをさせられているケースがあったりします。「PTA」の在り方をちょっと見直したほうが良いと思います。私は、「PTA」は任意加入だということをハッキリさせるべきだと思います。
「PTA」を廃止した所もありますが、「PTCA」といって「PTA」の構成員を地域住民に広げた組織もあります。PTCAのCは、地域のコミュニティです。地域の中で暮らしている大人の中には保護者ではない人も大勢います。そういった直接自分の子どもが学校に行っている保護者ではない、或いは自分の孫が学校に通ってはいないけれども、自分が住んでいる地域の子ども達なんだという意識を持つことは凄く大事で、学校の子ども達に地域の人が関わっていく。「放課後子ども教室」というのがあって、場所は多くの場合学校ですが、教職員は関わらずに地域の人達が子ども達と一緒にいろいろな体験活動や交流活動、場合によっては学習活動、宿題をみてあげる等しています。放課後の子どもに関する取り組みについては文部科学省系の事業と厚生労働省系の事業があります。今申し上げた「放課後子ども教室」は文科省が補助金を出して行っています。厚労省は所謂「学童保育」、難しい言葉で言えば放課後児童健全育成事業と称しています。厚労省のほうは、対象となる子どもが一人親家庭など、家に帰っても保護者がいない子どもに限定されています。家庭の代わりに子どもを預かるという意味合いが強く、其処で様々な活動を行っています。一方、「放課後子ども教室」は、活動自体が目的で、預かるというのは本来の目的ではありません。家に帰ると保護者が居るという子ども達も其処へ来ていろんな活動をしています。
厚労省系の事業は、指導員が報酬を得て仕事をする場所なので補助金の額が大きい。一方、文科省系の「放課後子ども教室」は全員ボランティアで地域の人達が関わるやり方です。15年位前から「放課後子どもプラン」といって、国はこの放課後子ども教室と学童保育とを出来るだけ連携させながらやっていこうという方針をとっています。学童保育の子ども達も放課後子ども教室へ行って、其処で地域の人から、例えば伝統工芸を習うとか農業を習う等、様々な地域の大人と接する機会を出来るだけ増やしていこうという方針になったわけです。今回のコロナ休校でも、文科省は子どもが家庭にとどまるよう求め、放課後子ども教室も休止するよう指導しましたが、厚労省は学童保育を続けるよう要請しました。また、学校の勉強を家で行うことになりましたが、誰も大人がみてくれない子どもが沢山居た訳です。「学習支援活動」というのも厚労省系と文科省系があって、厚労省系のほうは、文字通り学習支援事業というもので、生活困窮家庭かひとり親家庭と対象がハッキリ決まっていますし、指導員も報酬を払って任用されます。文科省系のほうは「地域未来塾」という名称で、要するに学校の勉強を見てあげる場所です。「地域未来塾」の対象となる子どもは、やはり限定されていませんし、指導するのはボランティアです。今の世の中では家庭にも学校にも居場所が見つけられない子どもが大勢いるはずで、そういう子ども達のために、地域の中にいろいろな場所、フリースクールだったり子ども食堂だったり、地域の中で出来ることはかなりあると思います。何処かに子どもの居場所が必要です。
―地域で子どもを育てるんだという考え方が拡がっていくためにはどんな風に?
自助・共助・公助という言葉で言えば、共助だと思います。ただ共助といっても、地域の人の善意だけで続けるのは中々難しいですから、やはり其処に公的な支援、共助を公助するような仕組みが必要だろうと思います。子ども達は社会の中の存在であり社会全体で支えるべき存在なんだという考え方をもっとみんなが共有していくことが大事です。家族というものがどんどん力を失ってきているのが現代ですから、子どもの学びとか子どもの育ちというものを家庭の中の責任だけに押し付けるのは、もう不可能な時代だと思います。やはり社会全体、地域の中で支えるような仕組みを作るべきでしょうね。
これは寺脇さんがよく言われることですが、いま子どもの人口というのは全体の8分の1であると。8分の1ということは、子ども1人に対して大人7人がいるんだと。つまり、片親家庭で親が1人しかいない子ども、或いは両親がいない子どももいます。しかし大人は子ども1人に対して7人居るんだから、その7人いる大人が〝自分たちの子どもだ〟という気持ちになって、関わる機会を作っていってくれれば、自ら命を絶つような子どもは確実に減るんじゃないかと。先程の映画で寺脇さんが一番訴えたかったのは其処です。地域の力を如何引き上げていくかという政治の力が必要であり、先程申し上げたような文科省や厚労省が行っている事業をもっと拡げていくべきだと思います。あとは、地域の中で子どもが育つ拠点に学校自体が変わっていくということが期待されます。学校は本来地域のもので、特に通学区域に住んでいる子ども達の地域のものなのです。
「コミュニティスクール」は、別名「地域運営学校」ともいいますが、地域の願いに応えながら学校の捉え方を考えるという風に学校の教職員の人達が、学校をもっと地域に開いていくことが大事です。実際に学校を地域に開いて地域の人と一緒に学校教育を行っていけば、先生方も本当は楽になるんですね。中でも三鷹市は、中学校区単位で、地域と学校の関係を非常に上手くつくって、学園という単位にして小中が一纏めになって全部コミュニティスクール化していますし、全ての学園に学校運営協議会があって、地域の人達や保護者が加わって教育の在り方を考えていこうという体制は、随分前から出来ています。三鷹市には貝ノ瀬さんという有名な教育長さんがいらっしゃって、地域と学校の関係を非常に良いかたちで作ってきています。私は、三鷹市は一つの良いモデルになると思っております。
――前川代表は記者会見で〝あったことを無かったことには出来ない〟と仰られました。重みのある、大切な言葉と思いました。子どもたちに対しても一番響く、伝えたい言葉であると思います。これに関して差し支えない範囲でお話出来ることがあれば?
加計学園問題というのは、明らかに行政が歪められた訳で、本来設置認可出来るはずがない獣医学部が無理やり認可されてしまいました。私は2017年の1月に文部科学省辞めましたので、あの時は既に辞めていました。その後、加計学園関係の文書が文科省からリークされて出ていきましたが、現職の職員達が文書を提供したんです。彼らが自分の判断で、これは国民が知るべきだと考えて行動した訳で、私は勇気ある行動だと思います。ところが、文部科学省で調査したところ、その文書の存在が確認できなかったという調査結果でした。〝探したけど見つかりませんでした〟という話になるはずがないんです。それはいくらなんでもないだろうというので記者会見をして〝あれはありました〟〝あったものを無かったことには出来ない〟という話をしました。私が勇気ある告発者であるかのように思われておりますが、私よりも実際にその文書をメディアの人に提供した現職の私の後輩達のほうが余程勇気があります。私自身は勇気ある告発者ではない。私はあったものはあったと言っただけの話で、それ自体なんの勇気もいらないし、幸い天下りもしていませんから失うものは無いんです。ただ新宿のバーの話が不祥事のように報道されたり、辞任の経緯についても、組織の責任をとってスパッと辞めたのに、それを全く逆の話にされて、地位に恋々としがみついた等全く事実に反することを言われたりしました。今でも菅さんを名誉棄損で訴えてもいいかなと思っているくらいです。あれは全く事実無根ですし、刑事告訴すれば名誉棄損罪になると思います。
私が勇気ある告発者だという間違った印象が世の中に伝わった一つの要因として、文藝春秋の編集部の人から、2017年7月号に加計学園問題について話をしてくれとインタビューを受けて、自分の知っていることを全部話した記事が載りました。ところがゲラを見せてもらうと、インタビュー記事ではなく私が一人称で書いた文体になっていました。「我が告発は役人の矜持だ」というタイトルの独占手記になっていて、これはおかしいでしょと抗議をしましたが〝イヤこういうものなんです〟と言われて、押し切られてしまって、そのまま掲載されてしまいました。ところがこの記事が、2017年の読者が選ぶ1年間で一番良かった記事ということで「文藝春秋読者賞」をもらったのです。それこそ〝無かったことをあったことには出来ない〟という気持ちになって葛藤を抱えながら受賞式に向かいました。あの記事で国民の皆さんに間違ったイメージをもたれてしまったと思っています。自分で書くのであれば「我が告発は役人の矜持だ」という恥ずかしいタイトルはつけません(笑)。
―2019年10月23日に成美教育文化会館で開かれた『憲法と教育~子どもたちに平和な未来を手渡したい~』という講演会で、夜間中学の必要性や多様性の尊重についてお話されました。その内容をもう一度お聞かせください。
文部省・文部科学省は、夜間中学に関して非常に冷淡でした。1966年には当時の行政管理庁が出した「夜間中学早期廃止勧告」を受けて潰そうとしたことがありました。でもそれを撥ね退けたのが夜間中学で学んだ生徒達でした。中心的人物だったのが、髙野雅夫という人です。髙野雅夫さんという方は、旧満州で孤児になって、たった一人で日本に帰ってきて、いわゆる昔でいう浮浪児として暮らしていたんです。二十歳過ぎてから夜間中学に入って、そこで初めてちゃんと読み書きを勉強して、その夜間中学で人間として人間性を回復できたとういう思いを持っていたので、〝こんな大事な場所を失くしてはいけない〟ということで廃止に反対する運動を展開されました。それが功を奏して一旦潰れかけましたが、1970年頃を境にまた増えていきました。
文部科学省の一番大事な仕事は、学ぶ場をちゃんと保障することであり、それに尽きると言ってもいいほどです。憲法26条で〝全ての人の人権として、保障されるべき学ぶ権利を保障する〟。つまり、学ぶ場所をちゃんと提供することが、文部科学省の最大且つ唯一と言っても良いほどの仕事です。その中でも特に「義務教育」が全ての人がちゃんとまっとうな人生を送るために最低限必要な教育で、その最低限必要な人権としての義務教育なのに、そこから零れ落ちてしまった人が、実は沢山いるということが事実としてある訳です。要するにこれは、国がやるべきことをやっていない、文科省がその使命を果たしていないということではないか、このままではいけないと私は若い頃からずっと思っていました。文科省は、大人の学びが不要だとまでは言っていませんが、大人のためには学校ではなく、成人学級等の社会教育で対応すれば良いという考え方でした。しかしながら学校へ行けなかった人は、やはり学校教育を受けたいんです。ちゃんと勉強して卒業しましたという卒業証書を貰いたいのです。
10年前の国勢調査で分かっている数字では、日本国内に小学校を卒業していない人が12万8千人います。去年の国勢調査でより詳しく学歴を調べるようになりましたから、今年の秋頃になると分かると思いますが、小学校を卒業していない人の数、小学校を卒業した後、中学校を卒業していない人の数が正確に出ると思います。2つを合わせて義務教育を終えていない人の数は、少なくとも2、30万人居ると思います。しかも、80年代の終わり頃に全く不登校の子どもであっても中学校の卒業証書だけは上げましょうとなりました。しかし卒業証書というのは、中学校の各科目をちゃんと勉強しましたということを証明する文書ですから、学校に来ていなかった子どもに卒業証書を出すのは、本当はおかしい。ただそれは80年代の終わり頃から一般化しています。従って今、40歳台以下の人は、殆どの人は中学校の卒業証書を持っているため、国勢調査には義務教育未修了者として表れません。卒業証書を持っているけれども、現実には中学校に行っていなかった、或いは小学校にも行っていないという場合があります。こういう今の義務教育の仕組みから零れ落ちた人がかなり沢山います。
―近年不登校になる子どもが増えていますので、夜間中学のニーズがもっと大きくなると思いますが。
不登校の子どもは、2012年度に11万人位までに減りましたが、2012年度を境にどんどん増えています。2019年度では、小中学校の不登校の児童生徒の数が18万人を超えました。2011年に「ゆとり教育」が終了した後、授業時間数が増えて、全国一斉学力テストも始まり、テスト、テストでこの10年位の間に子ども達が学校でどんどん息苦しくなっており、その間にまた不登校が増え続けています。おそらく2020年度は、コロナ休校の後、毎日6時間とか7時間授業の日もあり、土曜日も授業があったり、夏休みも冬休みも短縮して、運動会も文化祭も修学旅行も中止にする等、詰め込み授業が行われしていますので学校についていけない子どもがまた増えるのではないかと危惧しています。
不登校は中学校で多い訳ですが、この10年位の間、中学生は1学年に約4万人の不登校の子どもがいます。その4万人の不登校の子ども達が不登校のまま卒業しています。不登校の定義というのは、年間30日以上休んでいる子どもでその理由が病気その他の理由ではない子どもです。十分学力がつかないまま中学校を卒業している「形式卒業者」といわれる子ども達は毎年毎年うまれていますから、そういう人達がちゃんともう一度学び直す場所は、当然用意しておかなければいけないんですね。
私は「義務教育」という言葉は、語弊があると思っています。「義務教育」は子どもが学校に行くことが義務だと勘違いされていますが、子どもが学校に行くことは権利であって義務ではないのです。義務を課されているのは保護者であって、保護者は子どもに教育を受けさせなさい、と。これは憲法26条の第2項に書かれています。教育を受ける権利の中でも一番中核的な部分で、最低限大人になるために必要な教育は誰もが無償で受けられるようにしようと。従って「無償普通教育」と言ったほうが良い。普通教育という言葉は、大人になるために最低限必要な教育という意味です。大人になるために最低限必要な教育は、無償で誰もが受けられる、これは人権なんだと。その人権を全ての人に保障しなくてはいけない。しかし現実には保障出来ていない。そして長い間、形式卒業者は夜間中学には入れませんという取扱いになっていました。形式卒業者は卒業証書を持っているからという理由で夜間中学にも入れなかった。これに対して、夜間中学の関係者がずっと形式卒業者の入学を認めてほしいと要望していました。2014年に自民党の馳浩さんが中心になって「夜間中学等義務教育拡充議員連盟」という超党派の議員連盟ができたことで、文科省が大きく方針転換をする切っ掛けになり、2015年には「形式卒業者も入れます」という通知を出しました。通知を出すまでもなく法律は禁じていませんから、本当は必要なかったんですが、各学校の設置者である市町村の教育委員会がずっと門戸を閉ざす取扱いをしていましたので、文科省が通知を出すことによって、漸く門戸が開かれたのです。現在、夜間中学に1800人位の生徒がおりますが、1割位が形式卒業者です。やはり、私はその形式卒業者の人達がもっともっと入ってきたら良いと思います。そのためには中学校の進路指導の先生達が〝夜間中学で学び直すという方法があるよ〟と伝えて頂きたい。不登校で学ぶことが出来なかったけれども夜間中学でもう一度学び直す。形式卒業者の場合、多くは2年生で編入して、2年間勉強して17歳で高校に行く。2年しっかり勉強をすれば、回復出来ます。昼間の中学校で不登校だった子どもでも、夜間の中学では何の支障もなく登校できるというケースは物凄く多いんです。
―夜間中学は、とても楽しそうですね。
夜間中学というのは、生徒を一つの型に嵌められない。違って当たり前なので、自分が自分でいて良いんだという安心感がもてるんだと思います。本当に違い過ぎて、年齢も16歳から90歳までいらっしゃって、国籍もバラバラです。様々なバックグラウンドのある外国人の子ども達がおり、特に学齢を超えて学びたいという子ども達の学ぶ場として非常に貴重な場になっていて、日本で高校に進学したり大学に進学したいという希望を持っている人も多くいます。ただ、夜間中学で学ぶニューカマーの外国人の内、3割位は日本語を学ぶということが入学の目的になっています。こういう人たちには本当は夜間中学ではなく、無償の日本語学校が必要なのです。そもそも日本は移民政策をとっていません。本当はちゃんとした移民政策をとるべきです。自治体レベルで無償の日本語学校を設置しているケースはありますが、国としては全くやっていない。日本語を学ぶ場が整備されていないために、夜間中学がその代わりになっているという部分があります。ただし現状においては、私はそういう日本語だけが目的という人も排除せずに夜間中学に受け入れる必要があると思います。夜間中学のニーズは確実にありますが、行政が掘り起こす努力をちゃんとしなければ、ニーズが顕在化していきません。形式卒業者にしても、或いは高齢者の義務教育未修了者にしても心の奥底で学校に行きたいという気持ちがあるけれども、叶わぬ夢だということで諦めてしまっているのです。心の奥底にしまいこんでいる〝自分も学校に行って学びたい〟という思いを丁寧に掬い上げるということを行えば喜んで学校に来る人達は沢山いるはずで、そういう丁寧なニーズの掘り起こしが必要だと考えています。
画期的なのは今年、県立夜間中学が徳島県と高知県に初めて出来ます。これまで夜間中学は、全て市か区で作っておりましたが、必ず市町村をまたいで複数の市町村から生徒が通って来ることを考えると、私は県が作るべきだとずっと思っていました。また岡山県では城之内さんという方が、昼間は学校の先生をやりながら自主夜間中学を運営されています。この夜間中学は、未だ4年ほどしか経っていません。最初の頃は生徒が数人でしたが、どんどん口コミで拡がっていって、今は200人位通っています。自主夜間中学というのは、いわば大人のフリースクールで、多くの場合、公立の夜間中学が無い地域で公立夜間中学の代わりに義務教育に相当する学習を自主的にボランティアで行っている場です。私も2つの自主夜間中学に関わっていて、1つは「福島駅前自主夜間中学」ですが、最近コロナのために東京からの参加は心配だということで行っていません。もう1つは「厚木えんぴつの会」といいますが、こちらは平気で東京から来ても良いということです(笑)。
実は、2014年は私が担当局長だった時で、超党派の議員連盟が出来た時に文科省の姿勢を180度変えました。それまではずっと冷淡だったのを、積極的に応援することにして、今は文科省自身が全国に作りましょうと呼び掛けていますので、これからは確実に増えていくだろうと思います。夜間中学にはいろいろなタイプの人がおりますので、手厚い教職員の配置が必要であり、特に日本語学習は充実させなければいけないと思います。
―からだサイエンス誌第153号の巻頭インタビューで炭谷茂氏がインクルーシブ教育の重要性を話されています。前川代表も先ほどの講演で、インクルーシブ教育の実現に向けた努力といじめ防止対策としての人権教育について述べていらっしゃいました。それについても教えてください。
インクルーシブ教育というのは、これは国の教育政策の方針になっています。日本政府が障がい者の権利に関する条約を批准した訳ですが、批准するにあたって、障がい者の権利条約の中に学校教育をインクルーシブのものにしていくという約束をしており、条約の中にその条文があります。インクルーシブの反対の言葉はエクスクルーシブで、エクスクルージョンというのは排除です。インクルージョンというのは包摂、包容と訳したりしますが、どんな障がいがあっても一緒に学ぶという、包み込んでいくという教育の在り方です。どんな障がいがあったとしても一緒に学ぶ教育を実現しようというものです。
そのためには、障がいを補完したり克服していくための手立てが必要で、医療的なケアが必要な子ども達のためには、学校に看護師さんが必要であるとか、或いは車椅子の子ども達のためにはバリアフリーの教室やエレベーターを設置する等があります。或いは発達障害の子ども達もいます。例えば、ディスレクシアといって、文字の読み書きが極度に苦手という子どもがおり、そういう子ども達のためには書いたものを音声化することで文字を介在させない学びが可能です。様々な障がいがありますが、今はどんどん技術が進んでいますから、「教育工学」はこういうハンデキャップを克服するためにこそ使うべきです。これまでの教育工学の成果をフル活用すれば、いろんな障がいを乗り越えて一緒に学ぶという環境が作れます。ただし最後は人が居なければいけないので、やはり教職員を増やさないと一緒に学ぶ環境は作っていけません。チームテーチングが出来るような体制を作ることが大事ですが、インクルーシブ教育は直ちにフルインクルーシブの教育が実現できるかというと難しいですし、よりインクルーシブな方向に進めていくことが教育政策の大事な課題だと思います。やはりICT化による教育工学の成果を出来るだけ活用していくことが大事であり、また人権教育の観点からインクルーシブ教育を進めることが大事だと思います。
このコロナ休校の中で、ICTでオンライン授業というのが急速に拡がってきました。より高度なものになってくると、遠隔地の教室を2つ繋いで、1つの教室みたいにしてしまうことも可能です。ずっと入院しているような医療的ケア児の場合は、院内学級や訪問指導が行われていますが、I CTを使えば日常的に一緒の空間を共有することが出来ると思います。出来るだけそういう方向で病院の中で一人ぽっちではない、オンラインを通じてではあってもクラスメイトと一緒に学ぶ、ちょっと元気になったら地域の学校に通っても良いですし、私はICTはこういう分野での活用の可能性は高いと思っています。
インクルーシブ教育と重なりますけれども、人権教育の一番の根本は、一人一人の命は同じ価値を持っているんだと、命に優劣はないということだと思います。沖縄の言葉に〝ヌチドゥタカラ〟という言葉がありますが、命こそ宝であり、一人一人の命は物凄く大事なんだということを小さい子どもの頃から、〝自分自身の命を大切にしましょうね〟というところから始めるべきだと思います。自分を大切にする人間であって、初めて他の人も大切に出来るんだろうと思います。自分自身の人間としての尊厳を自分でしっかり自覚して、それを自分で守ろうとする態度を身に着けることが大事です。差別とかヘイトは、全国的にありますが、これから様々な国の出身者が日本で暮らすようになれば、いろんな民族的ルーツの人達がそういった差別にさらされることのないように、たとえ国籍や人種が違っていても同じ人間であり、人間としてお互いに尊重しあうという人権感覚が非常に大切で、私はそういった民族差別のようなものを失くすための取り組みは全国どこの教育機関でも必要になってくると思います。市民社会の一員としてお互いの違いを認め合いつつ共に生きる多文化共生社会が大事になってくると思いますし、またそれは人権教育の一貫でもあると思います。
―やはり前川代表は、理想主義こそが真の現実主義、理想なき現実主義に進歩はないと述べられていらっしゃいます。それについても教えてください。
私は、人類は進歩していると信じている訳です。ただ100年単位でみると進歩していると思いますが、10年単位でみると時々後ろにいってしまうことがあります。日本だけの話ではありませんが、日本の社会を見ていると、今は少し後ろ向きになっていると思います。より良い社会、より良い人間の世の中を考えて、良い方向に向かっていこうとする意志があれば社会は変えていけると思いますし、理想を持っているからこそ、現実を変えていくという具体的な取り組みが出来るのです。現実をあるがままに認めてしまえば、其処から先へ進めなくなって、寧ろどんどん後退していくだけになります。例えば、地球上から戦争を失くそうや核兵器を失くそうというのも、ある意味では理想ですが、それは少なくとも今我々が生きている間には実現できなくても、300年後或いは500年後なのか分かりませんが、いずれは達成できると思っています。国際法の世界を考えても、第一次世界大戦までは、戦争をすることは、国家の権利であるからいつ何時でも戦争をしても良いという考え方でした。当時の「戦時国際法」では、戦争には作法がある、その作法さえ守れば何時でも戦争をして良いと。つまり宣戦布告さえ行えば、何時でも戦争を始めても良いという考え方でした。しかし第一次世界大戦を経験して、特にヨーロッパの人達は、これはとんでもないことだ、こんな戦争は二度とやるべきではないという深い反省をした訳です。1928年の「パリ不戦条約」は、初めて戦争を違法化した画期的な条約とされています。〝戦争は違法である、国際法違反の行為である〟ということを初めて確立した多国間条約でした。日本も最初はそれに加わっていましたが、あっという間に崩れて3年後に日本は満州事変を始めています。本当に一瞬のことではありましたが、国際法において〝戦争は違法である〟というところまでに達したのです。その後、第二次世界大戦が起きていますので、とんでもない世界になってしまいましたが、その反省に立って、1945年には国際連合が設立され「国際連合憲章」が出来ました。その国際連合憲章はもう一度パリ不戦条約の焼き直しを行って、戦争違法化をもっと明確に定めて〝自衛権行使以外の戦争は認めません〟とした訳です。しかも「国際連合憲章」は戦争を違法化しただけではなく、戦争に至らない武力の行使及び武力による威嚇も違法化したのです。戦争だけではなく、武力による威嚇、脅しを行うこと自体も禁じました。これは国際連合憲章に国際条約として初めて盛り込まれた言葉ですが、それをそのまま憲法9条へ持ってきて「戦争放棄」の規定になっております。放棄しているのは戦争だけではなく、武力による威嚇も禁じているのは国連憲章の規定と同じです。
つまり、武力で問題を解決しないという国連の理想が、日本国憲法の中に取り入れられているのです。人類の勝ち取ってきたものが日本国憲法の中に植え込まれているということです。ただその後も戦争は起こっていますが、日本はこの9条があったお陰で日本国民は戦争で一人も死んでいません。これはやはり理想主義的な憲法を持ったお陰だと思います。要するに暴力で問題を解決してはならない。これはやはり人類の理想だと思いますし、人類が少しずつそっちに向かっていっていると思います。3歩前進2歩後退という進み方ではあっても、もう一度3歩前進する時期があるだろうと思います。やはり日本国憲法に盛り込まれている「人権」とか「平和」とか「民主主義」というものが人類共通の理想と思いますので、人類全体がそっちのほうに向いていくと思っています。あと100年位かかると思いますが、やはり理想は捨てないことだと思います。〝必ず良くなる!〟と。現実をしっかり見ながら、理想を目指すべきです。
―これまで子どもたちにとって、コミュニケーションやスキンシップの大切さをずっと言われてきましたが、今回のコロナ禍でスキンシップは殆ど出来ない状態になっています。コロナが終息するとこの一定期間の子どもたちに対する距離等取返しがつくものでしょうか?前川代表が思われるこの度のコロナ禍における子どもたちの影響についてと今後の対策などについてお聞かせください。
私は教職員の社会的検査、PCR検査を全国的にやるべきだと思っています。少なくとも職員から感染が拡がることがないように医療機関や介護施設の職員は、優先的に定期的な検査をすべきで、今一部の自治体、例えば世田谷区では、この1月から「プール方式」を始めるとしています。4人の検体を一緒に検査することで効率化をはかり、その4人の検体が陰性であれば4倍の効率で陰性の証明が可能です。また陽性と出た時にはその4人の内の誰が陽性かということで、もう一度検査をし直すという方法です。先ずは身体的接触が避けられない介護施設の職員、特養の職員、更には保育園や幼稚園、小学校、中学校にも拡げていくとしており、これは非常に正しい方向性だと思っています。これまでに感染した子ども達が何所で感染したのかを文科省でデータを取っていますが、小学生の場合、感染ルートが分かっている子どもの73%は家庭内感染で、学校で感染したのは6%ですから、学校での感染のリスクはそんなに高くはない。確かに学校で感染しないようにすることは、凄く大事です。しかし、コミュニケーションやスキンシップを禁じてしまうというのは、非常に子ども達の成長の上ではマイナスになると思いますし、取返しはつかないと思います。やはり介護施設と同じ様に身体的接触が避けられない場であることを前提に安全対策を講じる。そのためには、少人数学級化というのは一つの方法ではあると思いますが、もう一つの有効な方法として、世田谷区が始めたような社会的検査を、定期的に教職員が検査を受けて、陰性であることを確認しながら仕事をしてもらうことが大事であると考えています。
〝密を避けろ〟〝子ども同士近寄るな〟〝お互いくっついたらダメだ〟など口やかましく言っても、子ども達は本能的に群れるものなんですから無理です。たとえ学校の中でくっついていなかったとしても、学校を出たら直ぐに一緒になって遊んでいます(笑)。
―「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」等で人気のプレイディみかこさんが、朝日新聞に〝英国で話題になっているコロナ感染における「南北の分断」は、地理的なものというより、居住者の経済状況や生活様式が関係している・・・貧しい暮らし向きの家庭ほど感染リスクを負っている。・・・コロナ禍を抜けた世界を待っているのは、見たこともない規模での貧困禍かもしれない・・・今年は各国の貧困対策が比較されることになるだろう。目を見開いてしっかりそれを見ていかなければならないのは、有権者一人一人だ〟等、述べています。前川代表は如何思われますか?
私も同感です。このコロナ禍で確実に格差が拡がっているでしょうね。子どもに着目して言えば、子どもの貧困は7人に1人とずっと言われていましたが、恐らく今は7人ではなく、5人に1人或いは4人に1人に拡がっていると思います。非正規労働で軽うじて生活を立てていた保護者が職を失ったり、生活保護がもっともっと増えて、確実に貧困層が増えていくでしょう。ところが失業とか廃業とか路上生活の人が増えている一方で株価が上がっており、一体どうなっているのかと思います。つまり株を持っている人達の生活はかえって豊かになっていたりする訳で、これは如何考えてもおかしい。やはり、世の中がおかしくなっています。もっと大きく言えば資本主義がおかしくなっています。社会の仕組みを変えなければいけない。 私は「ベーシックサービス論」という、社会の中で生きていく上で、これだけは必要であるというものは、無償で提供される。所得のいかんに関わらず、サービスとして全ての人が享受できるようにするという考え方は非常に大事だと思います。つまり、基本的なサービスは無償でお金をかけなくても享受出来るようにすべきだろうと思いますし、その上で、ベーシックインカムがあるということかなと思いますが、そのためには財政の構造を大きく変える必要があると思います。人間の生活に直結する部分にもっとお金をかける、医療や福祉、介護とか教育という部分にもっと公的なお金をつぎ込んでいく。私はイージス艦なんかもう必要ないと思いますし、辺野古は即刻中止したほうが良いと思います。一方でちゃんと取るべきところからちゃんと税金を取るべきだと思います。それは法人税と所得税と相続税です。これらの税については、応能負担という考え方でちゃんと富を握っている人から取るべきです。1980年頃までの日本の税制はもっと累進率が高かったのです。所得税は最高税率が70%でした。しかし、今は45%です。やはり人類全体として富の偏在を是正することを考えるべきです。中でも所得税の累進率を高めるべきです。かつての最高税率70%まではいかないにしても、まずは60%くらいまで上げても良いと思いますし、住民税と合わせて7割位までは取っても良いと思います。法人税も内部留保をため込むような大企業からは、もっと税金を取ったほうが良い。
トマ・ピケティという人が世界の資本主義が段々遺産で食っていくという世の中に戻りつつあると言っています。お金を転がしていく資産運用でお金は増えて、資産が資産を生んで階層が固定化されていく訳です。更に私は教育関係の税制で我慢がならない税制があります。教育資金一括贈与非課税制度です。1500万円までのお金を子や孫に教育資金としてまとめて贈与をしたら非課税になるというものです。日本中のお金持ちが相続税の節税対策に使っている制度で、これは明らかな金持ち優遇政策です。結果として、国の相続税収入が減っている訳です。これはもう明らかに格差を拡げるような税制で、一刻も早く廃止すべきです。金融所得への課税も明らかに金持ち優遇税制です。所得税と住民税を合わせて20%しか課税されない。収入が高い人ほど金融所得の割合が高い。つまり、お金を転がしているんです。そういう富裕層は年収1億円を超えると実効税率が下がっていく。多くの庶民は株の売買など行っていませんので、金の取引をしている人がどういう税金を払っているのかを知らないのです。私はもっともっと多くの市民が税制に関心を持つべきだと思います。
余計な軍事費は抑えて、もっと人々の生活のためにお金をふりむけるという歳出の構造を変えることが大事です。ベーシックサービスを全ての人に保障するという方向に持っていくことと、貧困対策のためには税制から考え直す必要があると思います。
前川喜平氏プロフィール
1955年、奈良県御所市生まれ。1963年、東京へ転居、1967年、麻布中学校・高等学校、入学。1973年、東京大学文科一類入学。1979年、東大法学部卒業。文部省入省(配属は大臣官房総務課審議班。ケンブリッジ大学大学院留学。 1986年9月、宮城県に出向し宮城県教育委員会行政課長。1989年2月、ユネスコ常駐代表部一等書記官、ユネスコ憲章改正に関与。1994年6月、与謝野馨文部大臣の秘書官として「文部省と日本教職員組合(日教組)との歴史的和解」に関与。1997年7月、文化庁文化部宗務課長。1998年7月、内閣官房中央省庁等改革推進本部事務局参事官。2000年6月、文部省教育助成局(2001年1月から文部科学省初等中等教育局)教職員課長、教員免許更新制に反対。2001年7月、同局財務課長、三位一体の改革に抵抗、義務教育費国庫負担制度を改革。2004年7月、同局初等中等教育企画課長、コミュニティスクールを推進。2006年7月、大臣官房総務課長、教育基本法改正に関与。2007年7月、初等中等教育局担当審議官、教員免許更新制導入に関与、高校無償化を推進。2012年1月、大臣官房長。2013年7月、初等中等教育局長、八重山教科書問題を解決、教育機会確保法制定に尽力。2014年7月、文部科学審議官。2016年6月、文部科学事務次官。2017年1月、退官。2018年1月から現代教育行政研究会代表、2018年4月から日本大学文理学部非常勤講師、福島市と厚木市で自主夜間中学の講師も務め、現在に至る。
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