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ビッグインタビュー:NPO法人UPTREE代表理事・阿久津美栄子氏

インタビュー 特集

自らの介護の経験を通して、本当に大事なことは果たして何であるのか?と、介護の盲点を暴き出してみせたNPO法人UPTREEの阿久津代表に今後の介護の担い手について鋭く話していただいた。

介護保険制度が崩れつつある今、要介護者を家族介護者が支えることでこれからの社会を支えていくしかありません!

NPO法人UPTREE
代表理事
阿久津 美栄子 氏

―阿久津代表がNPO法人UPTREEを立ち上げるに至った経緯を教えてください。

介護については、制度ありきという感じで皆さん参入されますが、一番大変なのは、当事者も大変ですが、家族のほうがもっと大変なんです。何故かというと、私は38歳の時から両親の介護と同時に子育てが重なって、所謂「ダブルケア」を経験しました。その当時は一緒に戦ってくれるような仲間や人は周りに一人も居ませんでした。まあまあインターネットも普及していましたが、日々の介護の忙しさからコミュニティを一つも見つけることが出来ず、普通に自分の大変さを分かってくれる人が欲しかったです。しかも、その時に家族が一番理解できないというのも経験しました。というのは、家族って当事者との関係が皆各々違うんです。そういうこともあって、その温度差を分かってもらえる介護者との結びつきが欲しかったし、それが無いのであれば作ろうということで、自分で立ち上げて今10年目になります。

―いろいろなカフェをやられていますが、最初にやられたのは何からでしょうか?

本当に誰もいない中で、〝なんでもやろう〟みたいな感じでした、たった一人で始めました。先述の通り、私が42歳の時に親が亡くなっておりますが、其処を現実に受け入れた時に何かこの社会違うだろうというのは凄く思いました。それまで幼過ぎたというのか、社会背景という着眼点はありませんでした。其処からやはり社会を知ることと歴史を学ぶことをしました。そしてグリーフケアの学びを1年間した時に、一人でもやろうと決意しました。丁度東日本大震災、3.11の後でした。NPO法が出来て内閣府が凄く推進しはじめていた時で、法人格で社会も変える事ができる事を知る、NPOじゃなきゃ出来ないのではないかなということでNPO法人格を選びました。

でもその時に自分が出来ることからやろうというところで、〝私は介護者支援をやりたんです〟と。その当時は〝介護者って誰?〟〝介護職でしょ?〟みたいな感じで、イヤ介護者というのはこういうことでと何度も何度も説明し、〝やりたいんです〟と言ったら、〝手伝うよ〟という人が少しずつ増えてきたんです。私は自分がやれることから、なんでも良いからやっていこうということで、介護中にアロマの資格を取っていました。私の親は癌だったので、癒し痛みの緩和の部分でもあり、結局親にもアロマセラピーが出来ました。元々私は介護者の支援をして癒してあげたいんだみたいな思いでした。それから〝一緒にやっても良いよ〟という人が3人集まり、其処から一緒に何かやりましょうみたいな感じで、全く何の地縁もなかった小金井市で、いろんなイベントや会合に出かけて行って、〝私は介護者支援をやりたいんです〟と相変わらずに伝えたところ、家族の介護をしている会に巡りあいました。

其処でいろんな話を聞きつつ、美容室を経営している方が地域の人が美容室の駐車場で集う居場所「青空カフェ」を実施されていた方がいらっしゃって、「介護者支援」をここでやってみたらと場所を提供して下さいました。毎月1回私が一人座り、〝介護の相談をしませんか?〟みたいな感じでやり始めました。それが本当に初めてだったんです(笑)。

その後、社会福祉協議会さんに相談をし、社会福祉協議会さんのエントランス空間に、〝ここに机を持ってきてやったら?〟と言われ、引き続いてやり始めたという感じです。その後は、だんだん仲間も増え、助成金なども取れるようになって、微々たるものですが場所代を払えるようになりました。ということで家族の介護者の居場所が出来ました。コロナ禍の前は木・金・土・日と4日間開いていましたので、凄く大変でした。チラシを市内に配布して、掲示板にも貼ってもらう等しました。またホームページも作って、発信をしていました。手ごたえを感じたのはアール・シック:”社会起業”の最先端を知る、そこに、介護者手帳を創りたいということで応募して通りました。応募内容を発表できる登壇の場があり、その時にいろんな支援者が集まっていたんです。その審査委員に出版社株式会社ディスカヴァー・トゥエンティワン取締役当時社長干場弓子さんから、本を出しませんか?ということで、介護者手帳よりもっと詳しい『後悔しないための介護ハンドブック』を出版することが出来ました。これが出版されてから、全国区になりお声かけがあって、NHKやEテレ等に出演しまして、介護者支援のお話をさせて頂く機会が得られました。

―様々な取組みは仲間のみんなと一緒に発案されたのでしょうか?

勿論です。一番こだわったのはカフェです。介護者の都合で普通に来れる場所が必要だと思ったんです。例えば「家族会」というものが自治体には必ずあります。「認知症カフェ」も凄く増えました。ただし、自治体が主催で開くものは、例えば平日の午後2時から3時等、平日です。介護者というのは平日来れない人が殆どです。結局、介護者が求めているニーズや時間等を聞いていくと、制度以外のものが絶対必要だということが確信できました。先ほども言いましたように、介護で一番大変なのは、家族です。制度というのは、一部分だけです。家族は「死」までを伴走しないといけないのです。つまり、そういうことを学校では教えてくれませんし、核家族が多くなって、死までを看とる人達が少なくなっています。

実は私もそうですが、親は永遠に生きるものだと思っていたので、まさか親が病気になって死ぬということをその時に初めて理解しました。喩えで言うと、泳ぎの出来ない子が海にバーンと投げられて溺れている状態が介護でした。ということで、制度以外のそういったアップデートした情報があまりにも少ない。制度ありきで国が決めたものが、そのまま下に下りてきて、しかも縛りがあって家族にはとても窮屈であり、勿論当事者も窮屈です。という訳で、ゼロ策ではなく、いろんな選択が出来ることが大事であり、その中でも家族バージョンが必要です。介護保険制度は需要と供給のバランスが今崩れているので、やはりアップデートされた情報が介護者と要介護者も知った上で介護に向き合わなければ、もう本当に介護難民になってしまいます。

―コロナ禍になって小さな事業所は潰れていますし、介護難民も相当いらっしゃる筈ですが、報道はあまりされていない。現場はどうなっているのでしょうか?

結局、国の施策でいうと小さい事業所等は統合していく考えですし、そもそも介護保険制度だけでは利益が出ない仕組みです。給付額の改定をしないと現状は改善されず従ってコロナで事業所が潰れるのはもう当たり前という、所謂ベルトコンベアに乗った感じで、そうならざるを得ないという方向が見えてきています。しかも要介護3以下は、自治体へ移行という方向で検討されており、介護保険は3年毎の改訂ですから、2024年、来年に改訂になりますが、そこの部分は持ち越しになり27年に行われることになりました。要介護3は、完璧に国からは切られることになり、そうなると家族の介護は〝誰がやるのか?〟となる訳です。国は、その施策を何で埋めようとしているのかというと、IT化です。

2021年の改訂時には、介護事業所に「LIFE」というアプリを導入、まあ義務ではなく努力義務みたいな感じでしたが、しかしそれを実施していく事は介護事業所の負担を増した事も事実です。一人の要介護者のデータを取る事は未来に必要ではありますが、全てを介護事業所へ丸投げ依頼には限界ではないかと考えます。ということもあり、本当に現場感と国がやっているところのギャップが大きすぎるのです。結局、目に見えているのは、家族がやらなければいけない時代がもう既にやってきているということです。介護保険制度の原点は、2025年問題、団塊世代の方が75歳後期高齢者になり社会保障費の人口バランスが崩れる事を見据えて出来たにも関わらず、結局それは現場での制度が決まっているのではなく、有識者が制度を検討し、介護サービスを提供する事業所側現場で検討改定をしているため、現場とのギャップが今非常に大きくなっている訳です。つまり、もう既に一人の要介護者を一人の家族が看なければいけない時代に突入しているのです。これは介護離職が増え更に日本の経済的な損失が大きくなっていくと思います。

実は「企業介護カフェ」というのもやらせて頂いています。それは何かというと、先述のとおり、今の状況は既に見込んでおりました。こうなるというのは現場介護家族の声から数年前から分かっていたことです。介護離職防止のためのカフェという名前の講座なんですが、今やらせていただいている企業さんは、仕事をしながら介護をしている人達にそのカフェに集まって頂いて、全国の介護の情報交換を出来る場を作りました。その時にアップデートされた情報を私から案内をしたり、介護離職防止という内容ですが、企業カフェ・介護カフェという参加しやすく敷居の低いカフェと言う名前をつけています。

―何時頃から「企業カフェ」を始めたのでしょうか?

5年前です。最初に、私が〝一緒にやりませんか?〟と持ちかけた時に外資系金融企業さんから一緒に企業に打診相談を実施してくださって、その後は紹介から紹介というかたちで外資系の金融機関が多いんですが、今では数社やらせて頂いています。企業に出向いていって、ファシリテートするのが私の役目です。介護者が参加しているので、毎回企業内アンケートを実施して頂き毎回のトピックを決めたり、又先方から1年間の介護の知りたいトピックを頂いて実施しています。コロナ禍になって有難かったのは、やはり今までは本社にしか来られなくて、オンライン中継もやって頂いたり、ズームで行う等していましたが、コロナ禍でその方達も出社できなくなって、私も自宅からオンライン参加を実施する形になったことで、圧倒的に人数が増えました。1度に100人前後の方が入ってきたり、コロナの初年度には通算1000人強の参加になりました。

―貴法人は、「読売福祉大賞」を受賞され、また小金井市の地域福祉推進事業補助金等もうけられています。そういったことも活動に大きな力を与えたように思いますが?

スタートアップ時には全く相手にもされませんでした。自治体というのは、市内にて実績のある団体企業へ補助金は出しやすいんです。小金井市と委託事業が出来たのが、3年前やっとです(笑)。7年間いろいろやって、勉強会をやりましょう、あれやりましょうって持ちかけても反応が薄く、〝だって実績や事例ないでしょ〟という感じでした。

「読売福祉大賞」は普通に一般応募で、助成金と一緒です。審査の時の講評をキチンと伝えてもらえるんですが、言われたことは、やはり家族という着眼点がこれから必要だということと介護保険制度以外のものが必要だというところは、審査員の方が評価したということでした。多分、社会は家族介護が当たり前と思っている人が多く、親を看るのが当たり前だと。しかしながら、ここでいろんなことが変わっていかなければいけない限界値が来ていることは確かと思う人も増えていると言うことではないかと思います。

―介護者手帳を作ったことによって阿久津代表が見えてきたこととその手帳に記述することでその介護者はどんな風に変われるのでしょうか?

「介護者手帳」で一番大切なことは、主介護者意識付けであり、また自分自身の経験から分かったことは、結局介護というのは、主観的にしかなれないと言う事なのです。所謂客観的目線というのは全く失くなってしまうんです。時間に追われ要介護者状態が衰えていくばかりなので、先を見越せることは殆どありません。つまりそういう時には何をしていかなければいけないのか?客観的になっていかなければいけないのですが、ただし家族のことって感情論になってしまって、中々客観的にはなれない。そういった思いは、外に出すのは難しいので、日記が良いとずっと思っていました。

もう1つ、「介護者手帳」を作った大きな理由は、手帳の中に要介護者の状態を書くところがあります。医師や介護事業所、或いは市役所等で、同じことを何回も言わなければならないことが多々あります。この手帳を書くことで「これです」と言うことが出来ますし、その分時間も省けますので、書くことによっての利便性があり、後々になってから振り返ることが可能で証明にもなります。手帳の有効性を示す意味でも記録は必要と思います。この手帳の一番のメインは、介護者のロードマップを創ることが出来て、介護の可視化が可能になりました。また現在の介護の家族の状況を可視化しようということもやっています。何年後は如何なるのかということを自分たちでちょっと計画を立ててみようということで行っています。実は介護というのは、家族の中のトラブルが多く、相談内容も殆ど家族トラブルの話です。制度の話で相談に来る人は少なく、ケアマネージャートラブルの相談に来る人も中にはいますが、基本は感情論です。初めての介護が始まった時にやることは、トラブルを出来るだけ軽減していくということが大事です。介護はトラブルがあって当たり前。

もう1つは、やはり介護というのは、ロードマップを見ていただくと分かると思いますが、最後は「看取り」なんです。実は、最期や死別を味わうグリーフ期があり、其処から始まる介護のいろいろな問題、家族関係や揉め事も多くありますから、やはりそういったところも事前に知っておくというところで、これを可視化しておくことは大事なのでお勧めしています。手帳はそういう部分で使っていただくことと、あと日記にこだわっていたのは、1つは介護を行っている時には意識しないと出来ませんが、書いたことは後々になってから、グリーフケアになります。当初はその書いた日記は見られないけれども、数年経ってから、故人との思い出が、自分の中で回復していくというその日記を見る事で回復段階がありますので、そういったところでも凄く勧めています。

実は私もそれがありました。最初に父が母の主介護者をやっていて、父はずっと日記をつけていました。それは何冊も残されていました。母の介護の後に父自身、自分も倒れるんですが、それまでつけていた日記を、当初私は見ることが出来ませんでした。2、3年後にそれを見た時、自分の中で凄く父と母との繋がりを思い癒しになりました。日記に父は感情を最初出せていなかったんです。〝今日は病院に行った〟〝薬をもらった〟〝今日は先生がこう言った〟ということが記されていたのですが、2年後くらいには感情が出てきていたんです。〝辛い〟とか〝このままだと如何なるのか〟等、あれを見た時にこれは良いなって思いました。

勿論私にはそれを伝えてもらっていないので、後になってから父の本心メッセージを貰ったという感じです。意識してそれをやって頂くことで、家族の関係っていろいろですから、そういったメッセージを残せますし、お互いに蟠りがあって、素直に言えないというジレンマもありますが、それでも書いておいたら、後々になって伝わることも多くあり、可視化をすることでトラブルはかなり軽減します。とにかく介護って、言った、言わないが多いんです。また自分がこんなに多くやったということは、あまり口で言うことは出来ないけれども、書いておいたことで証明できますから、やはり書くということは大事です。

―今後の事業展開とお考え、これからの展望を聞かせてください。

いま実は「アウトドアけあカフェ」という事を実施しています。それは何かというと、やはりコロナ禍で思ったことは、先にも話しましたが、支援されるのが当たり前だという時代は終わったなって思っていました。「アウトドアけあカフェ」というのは、地域を回るスタンプラリーです。遠距離と短距離があります。商店街の皆さんにご協力いただいて、イトーヨーカ堂武蔵小金井店安心サポート売り場介護用品を販売、後は和菓子屋さんであったり、ステーキ屋さんだったり、新聞販売店等いろいろです。何故かというとその人達ってこの地域でお仕事されている人ですから、その人達はやはり何かあっても地域に居る方達です。介護者は孤立しがちなので、介護しているということを分かった上で、コミュニケーションがとれる場を増やしましょうと、自分がやってもらうのではなく、積極的に歩いて知り合ってくださいという意図です。月に1回、第2月曜日に行っています。以前は公民館とコラボで「アウトドア認知症カフェ」というのを開いていましたが、現在は認知症の方だけでは無く多様な介護家族が対象で実施をしています。

スタンプラリーを終えて「アウトドアカフェ」で意見交換をする参加者の方々
スタンプラリーを終えて「アウトドアカフェ」で意見交換をする参加者の方々

今後は「シニアケアウォーク」というものを、協働提案事業で行っていこうかなと思っています。スマートウオッチを使いながらの実証実験ですが、コミュニティをどんな形で出来るのかというのを今やっているところです。例えば地域の商店会とアプリ等で双方コミュニケーションが創れたらいいなということで、助成金も活用をしています。他には、いまヤングケアラーの支援を行っております。これは【東京都】ヤングケアラー相談支援等補助事業になっています。障がい者家族支援も元々行っていて、介護者手帳を一番最初に出した際に「みかん組」という重度心身障がい児の親の会が杉並区にありまして、自分たちのために手帳を作ってもらえないかというオファーがありました。それで介護者手帳の二作目「ケアラーズノート」を一緒に作りました。今もそれを販売しています。当時は任意団体でしたが今ではUPTREEと同じNPO法人各を取得され活躍されています。

メッセージで一番伝えたいことは、やはり家族が当たり前にやるんだというところは変えていかなければなりません。ヤングケアラー支援をして更に分かったことは、当たり前の安心を家庭に求める事ができない子どもがいると言う事、これから先もずっとそうなのかというところで、凄く悩んでいます。やはりキチンと社会がこの現実は特に大人が理解をしなければいけません。子ども家庭庁と言う名称を決める際にヒアリング現場へヤングケアラーOBが行き、とりなしたにも関わらず、「子ども庁」からまた「子ども家庭庁」になって、名称に「家庭」が戻ったという経緯があります。そういったことが国の施策なんだということで、やはり未来は変わっていかない。こういうことを私たちが出来ることから、大きくは出来ないけれども、いろんな選択が出来る場所が必要だというところを、作っていくしかありません。当事者が本当に生きづらさを抱え、ヤングケアラーOBは今も抱えています。先に話しましたように、介護とは海に投げ出されている人が溺れている状態です。溺れる子どもを目の前にしたら放っておくような事はできません。結局、〝誰が守るの?〟というのは、やはりその現状を知っている人がやっていかなければ、社会を変えることは出来ません。

―制度について、阿久津代表が強く思っていること等ありましたら?

介護保険制度ありきでは絶対もう事業はできませんっていうところです。それが今やっとこのコロナで顕著に結果が出たということです。それは何故かというと、結局点数であったり、そういったものというのは、はじまった当初は手厚く、下がっていくのが当たり前です。今は要介護者人数が増えていますが、やはり需要と供給のバランスは2025年以降数年で崩れていきます。当たり前ですが、最初は介護事業所って少なかったんです。しかし、これだけ頭打ちになって、数年前積極的に参入の多かった放課後デイサービスも今は23区で新規の許可はなかなかおりません。やはり、ある程度の数が増えた場合は制度でもう事業継続は厳しくなります。自主事業をやらない限りは、継続は不可能です。

あと1つは、国の制度を見定めてやっていかなければいけないということであれば、吸収合併していかないと生き残れません。小さい所1つでやっていこうなんて、もう無理です。他で何か収益を上げているのであれば出来るかもしれませんが無理です。今後、介護離職(介護職)は酷くなると思います。コロナ以前の介護人材不足解消に外国からの人材を受け入れる方向でした。ですが、コロナ後外国からは円安による影響も拍車をかけ労働者が来ません。日本が選ばれる国ではないのです。逆に日本人が外国へ労働に行かなければいけないようになっています。ITなんか当たり前で、若者は外国に出稼ぎに行く時代が来ているのです。

ということで、家族介護〝誰が看るんですか?〟というと、ここ数年は高齢者同士が看る老々介護が多くなり、その後の人達は誰が看るのでしょうか。ですから介護保険制度の其処をもっと考えなければいけないことと、介護というのは、家族を看たいという家族の関係もある訳です。つまり、介護により仕事を辞めたとしても家族介護者、其処にお金を付けなければダメなんです。そうしなければ生活が成り立たないのです。つまり、ゼロか百かではなく、間をとる“選択のできる介護施策“を作っていかなければいけないというのが一番今やらなければいけない急務なことだと考えております。

阿久津美栄子 氏プロフィール

NPO法人UPTREE 代表。子育てと同時に両親の遠距離介護生活を経験したことから、介護者の”居場所”をつくるための活動を始める。介護者支援NPO法人のUPTREEにて「caregiversカフェ」運営「介護者手帳制作・啓発」活動を実施中。

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